2011年3月18日金曜日

「見ることの誘惑」番外編 クリエイティブの力−「わたし」は「つながり」のなかにいる

無縁社会は人と人との「つながり」が失われた社会だ。各地域をつないで地球をひとつにするグローバリゼーションが拡張している。平行して、コミュニティ(集まり、共同体)が壊れ、「つながり」をもたない孤立した「ひとり」が広がっていく。「つながり」を取り戻すことが日本の社会に活力を与えなおすことになると考えられている。
クリエイティブ(創造すること、創造されたもの)にかかわるわたしたちは、どうしたら「つながり」が成り立つのかとか、「つながり」のあるコミュニティを再興するにはどうすればよいのかを、クリエイティブを通して考えてみよう。
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日本人は個人という人格よりも、匿名的な場所で自分や相手を指し示してきた、と指摘したのは吉田健一だっただろうか。「おまえ」はもともとは「あなた」のことではなく、「あなた」の「御前」の場所にいる「わたし」のことを意味していたようだ。「こっち」と「そっち」も典型的な場所意識のあらわれだ。
そういうことばのなかできわだっているのが「ウチ」だろう。同じクラスの仲間を「ウチ」といい、自分が所属している学校を「ウチ」ともいう。「ウチ」はとうぜんその反対の「ソト」を自覚したことばだ。「ソト」に対応するには「ウチ」は閉じていなくてはならない。
「ウチ」の閉じた場所意識は7世紀後半の天武天皇時代に始まった「家」制度が原因の一つだろう。日本の古くからの農耕社会での、水田を潤す水を共有する「ムラ社会」という日本特有の集まり意識から生まれたのかどうかはわからない。西欧中世の今でも残っているドイツのローテンブルグなどは、町は城壁で囲まれた「ウチ」を形成して「ソト」に対して完全に閉じているからだ。。
ただ、わたしたちは一人で生まれてきて一人で「人間」になるわけではないことも確かだ。生まれてから死ぬまで羊のように群(ムラ)がり、寄り添って暮らす。このあたりのことは三浦雅士の「私という現象」(講談社学術文庫)を読んでおきたい。
「ムラ社会」をもとにして現在の日本社会を明快に説明しているのは広井良典「コミュニティを問いなおす」(ちくま新書)である。

戦後の日本社会とは、“農村から都市への人口大移動”の歴史といえるが、農村から都市に移った人々はカイシャや核家族という“都市の中の農村(ムラ社会)”を作っていったといえる。そこではカイシャや核家族といったものが“閉じた集団”になり、それを超えたつながりはきわめて希薄になっていった。そしてさらに、そうしたムラ社会の「単位」が個人にまでいわば“縮小”し、人と人との間の孤立感が極限まで高まっているのが現在の日本社会ではないだろうか。

無縁社会とは、自立して開かれた「おひとりさま」ではない、閉じた「ムラとしてのひとり」がばらけて散在している状態のことだ。個人のなかの閉じた「ムラ社会」が開かれなくてはならない。
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奈良の東大寺法華堂(三月堂)に安置されている「不空羂索(けんさく)観音」は仏教隆盛の奈良時代の作だ。興福寺北円堂にある運慶の「無著」とならぶ日本仏教史に残る彫刻の最高傑作だとわたしは思う。羂索は五色糸で撚りあわされた綱。「不空羂索観音」は救いを求める民衆に羂索を投げかける。一網打尽のように一挙に多くの民衆と「つな(綱)がり」をつけるのだ。
「不空羂索観音」がつくられた少し前には東大寺の大仏が造営されている。大仏は聖武天皇を頂点とする国家権力による鎮護国家の象徴だった。大仏は民衆の苦しみを救うことなく、むしろより多くの災厄をもたらした。そこで東大寺の賢者良弁和上は民衆のための仏像として「不空羂索観音」をつくったのだ。羂索による「つな(綱)がり」は気休めにしかすぎないとしても、苦しむ人々に「ひとり」ではない、他者と「つながって」いるんだと実感させ、心の平安を与えたことだろう。
2011年2月初旬の今も、「不空羂索観音」は「つながり」の網を世界に投げかけている。聖武天皇がエジプトのムバラク大統領だとしたら、良弁和上はエジプトグーグルの幹部ワエル・ゴニム氏かもしれない。ネット(網)の検索(羂索)で民衆同士のつながりをつけたのだから。
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「不空羂索観音」の前にたたずむ民衆の「ひとりのこのわたし」という気持ちとは違う「ひとり」感もある。母子家庭に暮らす少女千秋(「ポプラの秋」湯本香樹実、新潮文庫)がそうだ。
千秋は亡き父を想いながらこんなことを考える。

父の沈黙のなかには決して入っていくことができないさびしさと、そのさびしさを癒してくれた父の温かみが、私のなかでは分かちがたく結びついているのだから。もしかしたら私は、父のそばで感じていたあの静かなさびしさがないことには、やさしさやぬくもりを感じることができないのではないだろうか・・・・・・

大家のおばあさんとの心の「つながり」を描いた「ポプラの秋」のここには、平易なことばで人間の本質的な孤独が表わされている。二人でいる孤独、他人と一緒にいる「ひとり」感だ。千秋はそれを嘆いているのではない。「私」が父のなかに入れない「さびしさ」、すなわち「ひとり」感があるからこそ、父の「やさしさ」が感じられ、「つながり」感があったのではないか、と千秋は自問している。
こうした気分は哲学の世界では古くから独我論として語りつがれてきた。
独我論の頂点に立つ思想家は、「語りえぬものについては沈黙するしかない」とか「言語ゲームの規則はゲームが終わった後でつくられる」などと、カリスマ的な発言で有名なウィトゲンシュタインをおいてほかにはいない。
「わたしに見えるもの(あるいは今見えるもの)だけが真に見えるものである」がウィトゲンシュタインの独我論のエッセンスだ(このあたりは永井均「ウィトゲンシュタイン入門」(ちくま新書)がわかりやすい)。実例をあげてみよう。「わたしが歯が痛いのはわたしにはわかるが、他人が歯が痛いのをわたしは確認しようがない」。あたりまえだろう、とあなたは思うだろうか。わたし以外の他人の意識(感じ方や考え方)は確認できない。これがあたりまえであってはならない。
他人がなにを感じ、なにを考えているのか、正確にはわからないという気分は日常的だ。でも同時に、他人の感じや考えをわかりたい、あるいはわかると思いたいという「つながり」シンドローム的な気分もある。けれども、さらに、「自分のことって人にはわかってもらえないから・・・」とも思ったりする。独我論や、「ひとり」とか「つながり」にしろ、ムラ社会やコミュニティなどにしてもこうした気分が出発点になっている。
わたしが「ポプラの秋」の千秋に感心するのは自分の「ひとり」感が父との「つながり」の元だと気づいていることだ。
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ウィトゲンシュタインの「わたしに見えるもの(あるいは今見えるもの)だけが真に見えるものである」は、1960年代の抽象美術のチャンピオン・アーティスト、フランク・ステラのことば「あなたが見ているものが、あなたが見ているものです」のトートロジー(類語反復)に反響していることはよく知られている。実際、1960年代のミニマル・アートやコンセプチュアル・アートへのウィトゲンシュタインの影響は際立っていた。
モダニズム・アートの極北に位置するステラの独我論的なことばと鏡像のように向かいあっているのは、モダニズム・アートの始まりの印象派やポスト印象派の絵画だ。ここで、アサビの卒業・修了制作展「クリエイティブ・ガーデン」を想いおこしながら、「庭」の絵画をモチーフにして独我論や「ひとり」、「つながり」、コミュニティなどを考えてみよう。

印象派のメジャー・アーティスト、クロード・モネ「庭のカミーユと子ども」(1875年)を見てみる。パリから10キロほどセーヌ川を下ったアルジャントゥイユの自宅の庭。花壇の前のカミーユと年齢を幼くした想像上のジャン。地面に注目したい。青とピンクで補色関係の色彩が強調されている。
モネのこうした色彩は実際の地面の様子を描いているのではない。モネの目のなかに映りこんでいる様子を描いている。地面の一部が青みがかって見える。すると、それの隣の地面の部分は反対色の赤みが強まって見えてくる。モネの目のなかでコントラストの強度が高まる。モネだけが感じ、モネだけしか見ることができない色彩。地面の「存在」の様子ではなくて、地面が目のなかで再生産された「視覚」の様子を描いている。
モネにしか見えない色彩。「わたしに見えるもの(あるいは今見えるもの)だけが真に見えるものである」というウィトゲンシュタインの独我論をもう一度反芻しておきたい。そういう色彩で描かれる世界は、ここでの核家族のように自分に親密な、文字通り目に入れても痛くないといったシーンになるしかない。目に入れても痛くない「わたし」だけのシーンを「わたし」だけが目に入れた色彩で描く、といってもいいだろう。したがって、他人にも同じように見えているかどうかは確認しようがない。
ポスト印象派のヴァン・ゴッホの絵画も同じようなポジションから眺めることができる。ゴッホがサン=レミに行く前に南フランスのアルルで描いた「夜のカフェテラス」(1888年)。ゴッホの下宿「黄色い家」のそばのカフェとその前の広場はゴッホにとって庭のような身近な場所だ。ゴッホ定番のリズミカルなストロークと傾いた遠近法的空間、そして傾いた左右のシーンをつなぐアーチ状の構図。地面の黄と紫青のコントラストはカフェと遠くの夜空や建物との間でも展開されている。身近な世界が文字通りに身近なゴッホ自身の目のなかで再生産されているのだ。
ゴッホという「わたし」だけに親密なシーンを、ゴッホという「わたし」だけに見える黄と紫青との補色関係のコントラストで表わしている。ゴッホの目のなかで生産された色彩だ。ある色彩を見ると、実際にはないはずの補色関係の色彩が目のなかで発生する。色彩の同時対照である。「わたし」だけの目のなかの出来事は他人にわかってもらえる保証はない。

モネもゴッホも描いているモチーフや色彩が、「わたし」にだけ見えるものという点で独我論の世界だとはいえないだろうか。実際、モダニズム・アートの始まりのモネから、モダニズム・アートの掉尾に位置するステラまで、多かれ少なかれ独我論で貫かれているといってもいい過ぎではない。
モネやゴッホの「わたし」だけの独我論的な世界、「わたし」にしか見えない独我論的な色彩を、では、同じように見た経験があるはずのないわたしがどうしてわかって、共感することができたのだろうか。
「わたしのことは他人にはわからない」、とか、「他人のことはわたしにはわからない」という「つながり」のない「さびしさ」におおわれた独我論を克服して、あらたな「つながり」やコミュニティ(集まり)を再構築する鍵はそこにある。
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3年前に東京国立近代美術館で開催された「わたし」をテーマにした展覧会「わたしいまめまいしたわ」は独我論や「ひとり」、「つながり」の問題に正面からアプローチしていて記憶に新しい。タイトルの「わたしいまめまいしたわ」は前から読んでも後ろから読んでも同じという回文スタイルだ。「わたし」探しで必ず直面する解決不可能な難問「わたしはわたしである」というトートロジー(類語反復)の鏡像モードになっている。先ほどのステラの「あなたが見ているものが、あなたが見ているものです」もトートロジー(類語反復)だったことを想いおこしたい。
「わたし」について考え始めると最後には「わたしってわたしなんだから・・・」と、最初に戻る結論にたどりついてしまう。ウロボロスの蛇に似た終わりが始まりであるような問いと答えを突き破るには「わたし」と同じような他人について考えてみるのがいい。
この展覧会にだされていたビル・ビオラの「追憶の五重奏」は、この点でとてもわかりやすい。極端なスローモーションで展開される五人の人物のアクション。なにかを嘆き悲しんでいるのだということがわかる。だれかの死を哀悼しているらしい。五人がそれぞれなにを感じなにを考えているのかを正確に確認することはできない。でも、悲しみ嘆いていることはわかる。わたしもつられて悲しい感じになってしまう。
他人である五人が悲しいと感じ、「わたし」も悲しいと感じる。他人や「わたし」に重きをおくのか、悲しいという「感じ」に重きをおくのか、重点のおきかたによっては「わたし」が他人と「つながる」通路が見えてくる。なにかを感じる「わたし」に重点をおいている限り他人は「わたし」の視野の「ソト」にいる。でも、「感じ」に重きをおいたら他人と「わたし」は「ウチ」や「ソト」という場所を必要としなくなる。他人と「わたし」は「感じ」で「つながる」。

湯本香樹実のもう一つの小説「夏の庭」(新潮文庫)は老人の庭を中心にして老人と少年たちが「つながり」を感じ、小さなコミュニティ(集まり)をつくっていく話だ。ビル・ビオラの「追憶の五人」の、共有する感情というテーマをもとに物語をつくったらこうかもしれないと思わせられる。現在の無縁社会に向けて20年近く前に発せられていたメッセージだとも読める。
そのなかで、老人と心を通わせるようになって、老人の家の庭をきれいに整えた後、縁側で老人がだしてくれたスイカを食べながら、父親のいない少年の一人がこんなことをいう。

おとうさんをりんごみたいに二つに割ってしまうこともできないし、うちにはおとうさんがいないから、おじいさんがひとりだから、だからおじいさんがうちのおとうさんになるってわけにもいかない。りんごじゃないんだから。でも、どこかにみんながもっとうまくいく仕組みがあっていいはずで、オレはそういう仕組みを見つけたいんだ。地球には大気があって、鳥には翼があって、風が吹いて、鳥が空を飛んで、そういうでかい仕組みを人間は見つけてきたんだろ。だから飛行機は飛ぶんだろ。音よりも早く飛べる飛行機があるのに、どうしてうちにはおとうさんがいないんだよ。

取り替えることができないそれぞれの「ひとり」。しかし同時に「ひとり」と「ひとり」とがうまく回っていく仕組みや考え方は、自然の世界の仕組みと同じように、まだだれも見つけていないけど、どこかに隠れて人間の世界を動かしているのでは。そういう仕組みに気づきさえすれば、人間の世界はもっとうまくいくはずだ。少年はそう思ったのだ。
「わたし」は「わたしだけが」という唯一絶対無二の「わたし」ではない。他人がそうであるような「わたし」でしかない。他人も「わたし」と同じもう一人の「わたし」なのだ。「わたし」が「感じる」ように他人も感じているという前提がなければ、他人と同じである「わたし」もなにかを感じることはできないということになる。こうして「わたし」と他人は感情を共有し「つながる」ことができる。
一方で、人間はこの「わたし」としてはかけがえのない取り替え不可能な「ひとり」だが、同時に「わたし」は他人と同じなので「ひとり」ではない。ここでひとりひとりが集まったコミュニティができあがる。
「わたし」をどんな「わたし」だと定義するのか、どんなポジションにおくのかが重要だ。「わたし」は特別なこの「わたし」ではない。他人がそうであるような「わたし」なのだ。「わたし」という一人称のことばは、わたしが使えばこのわたしを指示し、あなたが使えばあなたという「わたし」を指示する。トマトやりんごということばとは違って、使われるシーンで指示する対象を変えていくのだということに気づいておきたい。シフター(転換子)と名づけられている。
ウィトゲンシュタインの独我論もこうした「わたし」とそれほど隔たってはいないだろう。
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クリエイティブはそれに接する人々の「感じ(フィーリング、感覚)」を通して人々の「つながり」をつくる。文化(culture)のラテン語の語源はcolere(耕す)だと広井良典は記している。そして、colereは「世話をする」が原義だともいう。おそらく作物を育てるために土地を耕すことは土地と作物の「世話をする」ことだからだろう。世話をしなければ作物は育たない。だから「ケア」と重なっていると広井良典は述べている。文化とは「ケア」だ。
アサビの文化としての「クリエイティブ・ガーデン」は教員が学生という植物の「世話をする」場所であるかもしれない。しかし、そういう二人だけの世界は閉じた「ムラ社会」になりがちではないか。「ムラ社会」を開くためには第三者、他者(「わたし」たちとは違うもう一人の「わたし」)が必要だ。
「クリエイティブ・ガーデン」を耕して「世話をする」のは教員以上に学生でなければならないとわたしは思う。学生と教員に「ケア」されて育ったクリエイティブという花が、蝶や鳥の姿をした多くの他者を呼び寄せる。クリエイティブをあいだに挟んで、わたしたちと他者とが互いに刺激しあってできる「つながり」、すなわちコミュニティがつくられていくのだと考えたい。蝶や鳥は別の他者の庭に「つながり」の花粉や種を運んでいく。
「つながり」をつくるために土地という環境や植物というクリエイティブを「ケア」するのだ。「ケア」された「夏の庭」での老人の庭の草花や「ポプラの秋」での庭のポプラこそがクリエイティブなのである。人と人との心の「つながり」、すなわちインター(相互の)・コミュニケーションが成り立っているコミュニティをつくっているのだから。
なにかを伝えたり伝えられたりするクリエイティブは、そこで初めて、人々がシステムや規則でつながっている社会に働きかける力に高められる。それが文化の豊かさだと思う。

<解題>
阿佐ヶ谷美術専門学校の卒業・修了制作作品集の巻頭文として書かれたものです。同時に、3月初めに横浜のBankArtで開催された卒業・修了制作展「クリエイティブ・ガーデン」を前提にしています。人と人との心の「つながり」が失われつつある日本で、どうしたら「つながり」をとりもどすことができるのか。クリエイティブに関わるわたしたちはこのことをどう考え、どう対応したらいいのかの道筋を示すことが目的の文です。結論的には、「感じる」こと、いわばフィーリングこそが「つながり」をとりもどす力になるのだと主張しようとしています。

図版
1.不空羂索観音立像 8世紀後半 東大寺法華堂(三月堂)
2.クロード・モネ「カミーユ・モネと子ども」1875年、ボストン美術館
3.ヴァンサン・ヴァン・ゴッホ「夜のカフェテラス」1888年、クレラー=ミュラー美術館
4.ビル・ビオラ「追憶の五重奏」2000