2012年7月17日火曜日

垂直な漂流    <きらめく星座 10>



           田中信太郎「△□の塔と赤とんぼ」 2000年 
             越後妻有「大地の芸術祭」 新潟県十日町市

◯△□の三種類からできているのだろうか、大地から空に向かって伸びる高さ14メートルの塔の頂点に赤とんぼ。

実りの秋をひかえた稲田に赤とんぼは日本人の定番のイメージだろう。
十日町市、ほくほく線まつだい駅のすぐ裏手のまつだい雪国農耕文化センターの近辺にはかなりの数の作品が設置されている。
わたしがもっとも興味をひかれたのは田中信太郎と伊藤誠の「夏の三日月」だ。伊藤誠の「夏の三日月」は何度か書いたことがある。その次に興味深かったのは河口龍夫「関係―大地・北斗七星」。
イリヤ&エミリヤ・カバコフの棚田にブルーやイエローの農耕者のシルエットが置かれた「棚田」や、草間弥生の「花咲ける妻有」などはあまり興味をひかれなかった。

△□の塔と赤とんぼ」はまつだい駅から棚田の間の道路を通って小高い松代城山に向かう途中に設置されている。
まつだいの駅から眺めてみると、すぐそばの渋海川でいったん下がった土地が城山に向かって上昇していく途中に位置している。背後には植林の杉が上昇し、棚田も蛇行しながら徐々に上昇している。
自然のなかの人工的な「美術」作品だと勘違いしそうになる。けれども、杉林も棚田も十分に人工的な「作品」だということを気づいておきたい。
「○△□の塔と赤とんぼ」は、春から夏にかけては周囲の緑と、秋から冬にかけてはブラウンやベージュから雪の白とのコントラストのなかで静かに、上昇しながら漂いつづけている。



大地から垂直に立ち上がる抽象的というか、抽象的なかたちが具体的なイメージに変貌しているアール・デコとさえ言ってみたくなる。ブラウンからレッドに変化する塔と赤とんぼは周囲のグリーンやブルーと溶けあうことはない。
けれども、杉林や棚田の緩やかな上昇感や蛇行しながら連なる棚田や大地の起伏のリズムに呼応している。還元的なミニマルな形態はとても寡黙だ。こうした不動の垂直性は見かけだけで、実は回転しながらするすると上昇する塔、そこから空に低く漂うように旋回する赤とんぼ。ゆるやかな流動感や漂流感があふれだしている。

まつだい駅をはさんだ反対側の芝峠から見下ろすプチ雲海の中にも置いてみたい。


1960年代のアヴァンギャルド、ネオ・ダダ・オルガナイザーズから、ミニマリズムや「点・線・面」への関わりを通して培われてきた田中信太郎の問題提起的なセンスが、わかりやすく結晶しているのが「△□の塔と赤とんぼ」ではないだろうか。
訪れるたびにあらたな発見がある。
(早見 堯)

*この文は、人形町ヴィジョンズで開催中の「きらめく星座」展の出品作品の一つです。展覧会会期終了の7月21日まで、「ほぼ」毎日更新予定です。ヴィジョンズが休みの日は休載。

2012年7月14日土曜日

Let it be   <きらめく星座 9>



            アルフレッド・シスレー「ヴィルヌーヴ・ラ・ガレンヌ」 
         1872年 カンヴァス 油彩 59.2×80cm エルミタージュ美術館 

ベージュやブラウン、ブルーやグリーン。大きく分けるとこの二種類の色彩が、あるときに強く、別なときには緩やかにコントラストを響かせている。

手前のセーヌ河の中洲、リル=サン=ドニ(サン=ドニ島)の地面ではベージュやブラウンとブルーやグリーンとが木漏れ日効果になって描かれている。
その上のセーヌ河のブルー、土手のイエロー・グリーンにはところどころにベージュが加えられて、さらに上の向こう岸の道路と家並みにつながっていく。


中州の島、リル=サン=ドニからパリ北方のサン=ドニ大聖堂の方ではなくて、反対のヴィルヌーヴ・ラ・ガレンヌの街の方を見ているのだろう。このシーンの左側にリル=サン=ドニ橋があることになる。

道路と家並みは河や土手とは反対にベージュやブラウンを主にして、グリーンやブルーが散りばめられている。もっとも上方の空は手前の逆光の暗いグリーンの葉裏や暗いブラウンの木の幹に呼応している。

河のボートに人の気配が感じられる。土手の上の道路にはパラソルの婦人など何人かの人も見える。
モーパッサンの短編小説や、ルノワールがこの近くのラ・グルヌイエールとかシャトゥーなどのセーヌ河で描いた絵画に見られるようなはなやいだ人のざわめきはない。

手前のリル=サン=ドニからセーヌ河、土手、道路と家並み、そして空とつづく水平のフリーズ状の構図は空間を左右に広げながら、緩やかに後退する奥行きをつくっている。奥行きは空でリル=サン=ドニの木や葉と混ざりあって再び緩やかに前進してくる。
家並みの明るいブラウンは木の幹の暗いブラウンに呼びかけているかのようだ。

風景は人の眼差しという文脈のなかでだけ中心をもつ。
「ヴィルヌーヴ・ラ・ガレンヌ」での中心のない分散された空間は、どんな風景も本来そうであるように「Let it be(そのままで)」と広がっていく。
そこに、人は束の間、佇んだり住みこんだりするだけだ。
シスレーのこの絵画は見ているわたしをリル=サン=ドニの木陰に誘いこんで、肩の力を抜くように語りかける。「Let it be」。

しばしば指摘されてきたような温和な風景ではない。
左右上下と手前と奥に、大気と光が緩やかに息づく透明な空間が広がりながらわずかに深まっていく。
日進月歩の「変化」が価値をもち始めた時代。「変化」の価値感を受け入れた「Let it be」。とても力強い肯定のつぶやきではないだろうか。

少し前に描かれたクロード・モネの絵画の呼吸とはかなり違っている。

           クロード・モネ「河」 1869年

当然もっと違っている高橋由一を想いおこすのは無意味なことだろうか。

           高橋由一 真崎稲荷の景 1872年ごろ

*この文は、人形町ヴィジョンズで開催中の「きらめく星座」展の出品作品の一つです。展覧会会期終了の7月21日まで毎日更新予定です。
人形町ヴィジョンズ http://visions.jp/


2012年7月12日木曜日

「はなやぎ」のなかで   <きらめく星座 8 >



                                 ピエール=オーギュスト・ルノワール「黒い服を着た婦人」1876年 
                                         油彩 カンヴァス 65.5×55.5cm エルミタージュ美術館

人がゆったりと座っている。眼差しの焦点は中空で漂っている。そこを光が流れていく。

明るい首と顔を軸にして、左側の比較的明るい前景の黒い服と暗い背景、右側の暗い服と明るくて色のニュアンスに富んだ背景とがコントラストとなって画面に生気を与えている。
微妙な諧調の服の黒や背景の褐色のなかにとらえられている明るい首や顔、右下の手、ブラウスの袖口などは、ピンクやベージュ、ブルーなどで彩られてはなやいでいる。

左側のブルーのスカーフから始まって首から胸につながるあたり、ブラウスの襟のホワイトがイエローやベージュ、ブルーで彩られながら、胸のベージュからピンクへと推移していく。服も体も溶解してはなやぐ空気が漂い始める。

ルノワールの絵画のなかでは、フェミニズム批評にはきわめて評判の悪い「桟敷席」(1874年 コートールド美術館)とならんで、黒の諧調が輝くように美しい絵画だ。
ルノワールの女性にしばしば登場する、「黒い服を着た婦人」のような焦点があっていない眼差しは「男性の目にとらえられている見られているわたし」と感じさせる。
そこがフェミニズム批評から「目」の敵にされる最大の理由だ。「男に媚びるな!」とフェミニストの声が響く。

ルノワールの絵画は「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」や「舟遊び人の昼食」のように、闊達な音楽が流れているような動きのある絵画では、文字通りの動きがもたらす、はなやぐ生の躍動感に満ちあふれている。
けれども、静謐にして生気にあふれ、親しみやすくて上品な「はなやぎ」をたたえているのは、むしろ、動きを抑えたこうした人物像ではないだろうか。
ルノワールは、印象主義最盛期のこの年の前後と、オルセーの「ピアノを弾く姉妹」が描かれた1890年前後がもっとも充実している。

「黒い服を着た婦人」の肩と腕とが形づくる円形、その円形の左寄りにまっすぐに据えられている首と顔は光とともに漂いがちな画面の表面を引き締めている。
不安定な表面の漂いを固定するこうした空間の統合法は、モネの絵画の表面でキラキラざわめく光の乱反射に統合感を与える線遠近法と同じ働きをしている(たとえば、モネでは「1878630日モントルグイユ街」)。
さらに、サテンの織物のように揺らぐ半透明な右側の背景から、右側の左腕の黒い袖、明るい左手と右手、そして左側の右腕の服から顔にいたる白と黒とを基調にした色彩の渦巻き状の連なりは、静かで、しかも、闊達な脈動と息づかいを紡いでいる。

「ピアノを弾く姉妹」は以前から形を越えた色彩の「はなやぎ」に満ちていると感じてきた。けれども、ルノワールの絵画は高貴で上品なハイ・アートという観念からするとミドル・ブローのセンスに流されすぎている、と、わたしは長い間なんとなく感じてもいた。
エルミタージュ美術館展で展示されていたこの絵画を見てから、ルノワールの絵画は違った相貌でわたしに現れてくるようになった。
それとも、19世紀西欧の小市民的美意識に違和感をもたなくなったということなのだろうか。
                                                                                                              (早見 堯)

*この文は、人形町ヴィジョンズで開催中の「きらめく星座」展の出品作品の一つです。展覧会会期終了の7月21日まで毎日更新予定です。
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2012年7月11日水曜日

生の臨場感  <きらめく星座 7>



         吉田捻郎「作品」 1955年 油彩、板 90×60.8cm 芦屋美術館所蔵
          「第2回具体美術展」に展示 小原流会館 東京 1956

黒い「地」に、上下の縁が肉厚の油絵具で盛り上がったタッチの痕跡が残されている。タッチというよりも絵具の塊といったほうがいいかもしれない。

黒い「地」は奥行きや広がりを抑えた即物的な支持体であることが強調されている。色や形、空間として見られることを拒絶している。絵具の物質的な盛り上がりを痕跡として残した「描く」、というよりも、絵具をこすりつけた行為も伝わってくる。

かつて、バーネット・ニューマンは「最初の人間は棒で地面に一本の線を描いた」と言ったことがある。人間が自分と自分以外の世界とを分節化して、畏怖の感情を抱いて外の世界にかかわった始めだ。絵画の始まりでもあった。

吉田捻郎は地面に線を描いたのでも、一握りの土塊をこすりつけたのでもない。
限定された絵画を思わせる黒い矩形のパネルに絵具を塗り延ばしたのだ。
絵具の物質感の強調や塗り延ばす行為は日常的な「もの」との関わり方に似ている。色や形、空間によって形成される絵画をわたしたちの生の日常に連れ戻している。

極度に洗練されて、人間の生の実存から遠ざかってしまった絵画、あるいは、バーネット・ニューマンが述べたような始原的な描く人間が生きていた生の現場から遠ざかってしまった描くこと。それを、もう一度、生の現場に連れ戻そうとしているではないだろうか。

吉田捻郎のこれは「絵画=painting」ではなく、「作品=work」だ。モダニズムの多くの絵画のように、絵画の成立の条件を問うことを通して表現を生みだしているのではない。「美術」という文脈のなかに人間の生の臨場感を生け捕りにしているのである。
(はやみ たかし)
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2012年7月10日火曜日

翻る光と空気  <きらめく星座 6>




          長谷川等伯 「龍虎図屏風」 1606年 ボストン美術館 
             六曲一双 紙本墨画 各154.2×340cm 

雲をともなって水を巻き上げる龍、風を起こして身構える虎。
中国由来の日本の伝統的なモチーフだ。動の龍に静の虎が伝統的な主題解釈なのだろうか。同じボストン美術館の狩野永徳だとされている「龍虎図屏風」などは典型的だ。

等伯の「龍虎図屏風」で注目したいのは龍と虎よりもそれらの間、余白というよりも、光と空気の空間といったほうがいいだろう。
右隻では龍を取り巻く雲、下の波。左隻の風と光を含んだ大気。
等伯はしばしば中国南宋の牧谿との関連で論じられてきた。牧谿の「漁村夕照図」や「遠浦帰帆図」の光と空気の表現は、西欧絵画の深さと広がりの空間表現とは違って、文字通り気韻生動の趣の高まりがすごい。

しかし、東京国立博物館のボストン美術館展で初めて等伯の「龍虎図屏風」見たとき、わたしは、なぜかティツアーノのいくつかの絵画を想いおこしていた。「バッカスとアリアドネ」(部分)や「エウロペの略奪」などだ。「ダナエ」での黄金の雨とそれを受ける下女も想起すればもっとわかりやすい。 
ティツィアーノ「バッカスとアリアドネ」部分
ティツィアーノ「エウロペの誘惑」
ティツィアーノ「ダナエ」
画面の左右、あるいは対角線状の斜め方向で二項的な対比があり、二つの間をペインタリーに描かれた光と空気が流れている。
二項性や二元論は、紅白や黒白はもとより、心身二元論や女性男性にいたるまで、わたしたちの思考のフレームになっている。西欧の聖母被昇天やイエスの復活と昇天、受胎告知、日本の風神雷神などはすぐに気がつくモチーフだ。
「一つ」かそうでなければ「二つ」。未分化の「一つ」である単一性でない場合には、「二つ」は「アンバランスのバランス」という古代ギリシア以来モンドリアンさえも手放せなかった「調和」の美学の基本として続いてきた。

思考常套句「二項性」を踏襲しているとしても、等伯やティツィアーノの斬新さは運筆やストロークにあるのではないだろうか。等伯の墨調の運筆、ティツィアーノのペインタリーなストローク。ともに墨と油絵具という物質が完璧に息づく光と空気に変貌させられている。等伯では「松林図屏風」と同じように風と水で鳴る音が聞こえてくるような気がする。
(早見 堯)
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2012年7月7日土曜日

イメージとことば  <きらめく星座 5>


             いいちこ 「千年のいとなみを思う。」i
             ichiko 駅ばり広告  2008

今は、インパクトが薄れたが、「いいちこ」の駅ばりポスターがきわだっていたころがあった。

風景画像に短いコピー、iichikoのロゴ、そして手前にいいちこのボトル。
情報の伝わり方や、イメージとことばの関係についていつも考えさせられたものだ。
駅構内やホームの雑踏のなかで、その場をトランスしたような人の気配の少ない風景が目に入ると、すっと吸い込まれそうになる。

「千年のいとなみを思う。」のコピーに誘われて、異国の広大な草原で展開されてきた太古の昔から変わることなく続けられている羊の遊牧に想像力をたくましくする。
わたしは、今、ボトルになって広大な草原にたたずんでいるなどと、日々、雑事に追われるわたしの生活が雄大な時間と空間に伸び広がっていくことを妄想してします。

しかし、「千年のいとなみを思う。」ではなく、コピーが「羊のあなたへ」だったらどうだろうか。
黙々と草を食みながら歩む羊に簡単に感情移入してしまうだろう。
広大な草原は社会の目に見えないシステムが可視化されたものだと思うかもしれない。

ルネ・マグリットの異質なものの組み合わせを想いおこすまでもなく、イメージとことばの結びつきはとても恣意的だ。写真はイメージとことばとの恣意的な結びつきの本当らしくさをいっそう強調する。

どんなビジュアルだろうと、いま、ここの「それ自体」であることはできない。つね、すでに、別な時間と場所の「それ自体」以外の意味を帯びる。

                 C・D・フリードリヒ クライスフヴァルド近郊の草地 1822年

同じような光景も、カスパール・ダーフィト・フリードリヒの絵画では、画家フリードリヒを「ことば」にして見てしまいがちだ。             
意味は文脈の効果なのである。
(早見 堯)

*この文は、人形町ヴィジョンズで開催中の「きらめく星座」展の出品作品の一つです。展覧会会期終了の7月21日まで毎日更新予定です。
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凍った花    <きらめく星座 4>



          アンドレ・ケルテス 「モンドリアン宅にて、パリ」
            ポンピドゥー・センター 1926年 25×20cm


アパートの部屋の内側から入り口を通して、外の階段と鉄の手すり、踊り場などが視野におさめられている。

部屋の内側では、左側の暗い壁に山高帽とマントが掛けられている。手前には花瓶にいれられたチューリップが簡素なテーブルに影を投げかけている。黒と白のコントラストと諧調に目を奪われないわけにはいかない。
傾いた水平のテーブルや階段、水平に広がる床や階段などと部屋の左側の壁や階段の向こうの壁は対立しながらも明るさで一つにつながっている。

部屋の左側の暗い壁は左から右に段階的に下降して外の階段や蛇行する手すりと共鳴している。それに気づくとテーブルと足拭きマットのつながりが見えてくる。
すべての部分がコントラストと諧調の関係の網目に確実にポジショニングされている。時間を停止させて空間を思いのままに秩序づけたかのようだ。

ピート・モンドリアンがオランダからパリに来て、「図」と「地」とが一つになった場を平面的に仕切り、アンバランスのバランスでまとめた抽象絵画「赤、黄、青のコンポジション」シリーズを本格的に始めるのは1921年。「赤、黄、青のコンポジション」の制作が続けられていた1926年に、モンドリアンが住んでいたのはモンパルナスのデパール街のアパートだ。
ケルテスは1925年にハンガリーのブダペストからパリにやってきたばかり。

部屋の入り口左側の柱は左右の中心よりも右側に寄せられている。しかし、右半分に明るい部分がより多く、しかも奥行きがあるので、見かけ上は柱が中央にあるかのように感じられる。

時間が停止してフリーズしたような静謐な空間の雰囲気をさらに強めているのは、造花のチューリップだ。
丸みを帯びた花瓶は階段の最下部の丸みや山高帽、そして、手すりにも呼応して、黒と白のコントラストや諧調と同じように、ドラマチックな動きをかもしだしている。

凍った時間が凍って静止したまま生の鼓動を脈打たせているのである。
モンドリアンの「赤、黄、青のコンポジション」を、モンドリアン自身の部屋に置き換えたかのようではないか。
                                   (早見 堯)

*この文は、人形町ヴィジョンズで開催されている14名による「きらめく星座」展出品作品の一つとして、会期中(7月3日~21日)、「ほぼ」毎日、更新される予定です。
人形町ヴィジョンズ「きらめく星座」展 http://www.visions.jp/

2012年7月5日木曜日

揺らめく空気  「真珠の耳飾の少女」   <きらめく星座3>

                          真珠の耳飾の少女 ヨハネス・フェルメール 
                          1665年ごろ マウリッツハイス美術館

「真珠の耳飾の少女」の左目と右目は、指摘されているように、たしかに微妙にずれている。モデルを見る画家の目が揺れ動いているからだとの意見があるらしい。

対象を見る画家の目が動いているのは当然のことだ。よく知られているように、セザンヌが描くサント・ヴィクトワール山の輪郭線は二重、三重にダブっている。
セザンヌのりんごを描くタッチはダブりながら横にずれていく。セザンヌの目が動いているからだ。でも、それが重要なのではない。
震える輪郭線やずれるタッチは山やりんごなどの物とそれを取り囲む空気とを通いあわせて空間にふくらみをだしていることが重要だ。

フェルメールも同じ。「真珠の耳飾の少女」に似たポーズをしたレオナルド・ダ・ヴィンチのルーヴル美術館の「岩窟の聖母」の天使も左目と右目とがずれている。
「真珠の耳飾の少女」も「岩窟の聖母」の天使も、左右の目がずれることによって、見ているわたしに向かって視線が求心的に狭まらならないで、空間の広がりが生みだされている。

                       レオナルド・ダ・ヴィンチ 岩窟の聖母
             ルーヴル美術館

ベラスケスの「ラス・メニーナス」では、描かれている場面を見ているのは鏡の映っているフェリペ4世だ。フェリペ4世が見た場面が描かれている。視点=消失点はフェリペ4世のはずだ。
しかし、「ラス・メニーナス」の部屋の空間の線遠近法的な消失点はフェリペ4世ではない。もっと右にずらされている。消失点が二つある。「ラス・メニーナス」の空間に広がりや開放感があるのはそのためだ。

「真珠の耳飾の少女」も同じように、少女と見ているわたしとのあいだに空間の広がりが生まれている。

フェルメールの絵画は手前の暗がり、中央の光に照らしだされたシーン、奥の壁が一般的な空間のセッティングだ。「真珠の耳飾の少女」では逆になっている。奥の暗がり、中央の光に浮かぶ少女、そして、その前に立つ見ているわたし。
ひたむきな眼差し、もの言いたげな口元。少女と見ているわたしとの間の親密であると同時に近寄りがたい空間の広がりをつくりだしている。
こうした両義的な空間の広がりが、感情の揺らめきに彩られた空気感をもたらしている。
(早見 堯)

*この文は、「きらめく星座2」展(人形町ヴィジョンズで開催中の14名による展覧会、73日~721日 http://www.visions.jp/)の出品作品として、展覧会会期中、「ほぼ」毎日、更新される予定です。

2012年7月4日水曜日

隔たりの詩学  <きらめく星座>2



      ヨハネス・フェルメール「真珠の首飾りの少女」ベルリン国立美術館 1662-65年 
      油彩 カンヴァス 55×45cm

身につけている真珠の首飾りを窓の横の小さな鏡のなかに見ている少女。首飾りとそれを身につけている自分の姿に夢中になっているかのようだ。フェルメールは人目を気にしないでなにかに没頭している人物を取りあげることが多い。

ルノワールやアルフォンス・ミュシャの没頭している女性の官能的な恍惚感とは違っている。ルノワールやミュシャの女性の動きのあるポーズとは異なる背筋を伸ばして動きを抑えたポーズだからなのだろうか。ルノワールやミュシャに似ている荻原守衛の「女」を想いおこしておきたい。
フェルメールの少女は没頭しながらも、没頭する自分から距離をおこうとしているのである。こうした没頭と節度とが調和した雰囲気が女性の「ひたむきさ」を醸しだしている。恍惚感や官能性とはことなる「ひたむきさ」は、鏡のなかの自分を見ているという点では自分自身との「近さ」であるにもかかわらず、それとは逆に、鏡と少女との間の空間の広がりがつくりだす鏡と少女との「遠さ」との相反する二つの距離感からも生みだされている。
相反する近さと遠さ、親密感と疎遠感とが生みだす特有な隔たりの感覚。それを「隔たりの詩学」と名づけてみたい。

絵画の中のシーンと見ているわたしとの間にもこうした隔たりの感覚がある。絵画のなかの奥の壁、窓からの光に照らしだされている中央の少女やテーブルなどの私的な部屋、そして手前の暗がり。手前の暗がりは絵画を見ている「わたし」につながっている。「わたし」は手前の暗がりから少女の私的なシーンを「覗いている」感じの「近さ」でありながら、同時に通りすがりの遊歩者の気まぐれなまなざしが一瞬見ただけといった「遠さ」も感じさせる。

部屋は外光に照らしだされて感情で潤んだ夢想の空間に変貌させられている。外光は絵画を見ている「わたし」のまなざしでもある。フェルメールの絵画を見た後、わたしはなにげない光景の細部が詩的に輝き始めたことに気づかないわけにはいかなかった。
(はやみ たかし)