2012年10月16日火曜日

楕円力

           篠山紀信「山口百恵」1977年



                        ペーテル・パウル・ルーベンス「キリスト哀悼」
                        油彩 カンヴァス 151×254cm
                        「リヒテンシュタイン 華麗なる公爵家の秘宝」展 
                        東京 国立新美術館 2012年10月3日~12月23日
                        ※掲載画像は原作を水平反転しています


「楕円幻想」は花田清輝の名エッセイだ。同じタイトルをつけた池田龍雄の展覧会を、東京、銀座の青木画廊で見たのは30数年前のことになる。

篠山紀信の「写真力」展で巨大なサイズの「山口百恵」を見ていたとき、なぜか「楕円幻想」が目の前をよぎって、少し前にみたばかりの「リヒテンシュタイン 華麗なる公爵家の秘宝」展に展示されていたルーベンスの「キリスト哀悼」へと向かっていった。
そして、さらに、ルーブル美術館に並べられたルーベンスの「マリー・ド・メディシスの生涯」を想いおこさないわけにはいかなかった。
どうしてなのだろうか。

篠山紀信の写真の圧倒的な臨場感と感覚的なリアリティ。いったい、これは・・・!? 同じ疑問と感嘆を、ルーブル美術館のルーベンスの絵画に抱いたのだ。
二つの焦点間の距離によって楕円はさまざまな形に変貌する。円は二つの焦点が一つに重なって固定された状態の特殊な楕円ではないだろうか。
円と違って、楕円はつねに流動している。

篠山紀信の写真の臨場感と感覚的なリアリティは、二つの焦点間の距離という平面上での空間の伸縮を感じさせることからもたらされている。山口百恵の体は対角線を基軸にして伸縮を繰り返す。

さらにもう一つの焦点の伸縮がある。カメラのレンズの焦点距離だ。手前と奥とで伸縮運動を起こしているかのようだ。山口百恵の上方の明るい水面は、日射しを浴びた山口百恵の片方の胸と肩とともに手前に迫ってくる。そうかと思うと、次の瞬間には水面に沈んでいく。

伸縮している。波うち流動しているのだ。息づき、脈打っているのである。ドラマティックではないか。

ルーベンスの「キリスト哀悼」も同じような見え方をする。だから迫りくる迫力がある。感覚的なざわめきを私にもたらすのだ。楕円の力だと言ってみたい。
そういえば、池田龍雄の「網元」にはこうした楕円力的な伸縮と流動があったことを、今、想いだした。
(はやみ たかし)

「THE PEOPLE by KISHIN 篠山紀信 写真力」展 東京 オペラシティ アートギャラリー 2012年10月3日~12月24日



「上」に描いて「下」を引き出す

辰野登恵子「WORK80-P17」1987年


               油彩・カンヴァス 248.5×333.3cm 辻和彦氏蔵

東京の国立新美術館で開催中の「与えられた形象 辰野登恵子 柴田敏雄」展で印象に残ったことが二つある。

一つは二人展の面白さだ。絵画の辰野登恵子と写真の柴田敏雄が互いに影響しあい刺激しあって制作を続けてきた様子がよくわかる。「すでに」そこにあるカンヴァスや自然に働きかける人の「蓋然的な」ノイズとしての営為。二人の共通した制作のモチベーションなのでは。一人の展示よりもよりわかりやすい。互いに相手がいなかったらこんな作品展開はなかっただろう。
もう一つは、辰野登恵子のアーティストとしてのキャリアの最初から今までずっと持続している制作の型というかパターンのようなものが見えてくることだ。辰野登恵子自身の次のことばがほとんどすべてを語っている。

油彩では「半透明なおつゆを何度も重ねて下の色を引き出しながら、最終的に上の色を決めます」。以前、スカンブリングに触れた発言もあった。
イエロー・オレンジ系とブルー・グリーン系が使われた「WORK87-P-21」(1987年)。二つの系統の色が相互に重ねられて引き出しあっている。グリッドもカンヴァスの潜在的な構造として「下」から引き出されている。
料理する必要があるのかと思えるほどの美味な生牡蠣を食べたときのことを想いだしてみたい。縦糸と横糸でグリッド状に織りなされたカンヴァスの空間が完璧に見えたとしても、生牡蠣にレモンの一滴をかけるように、カンヴァスの上に「蓋然的に」痕跡を描くことでしか完璧な空間を指し示すことはできない。

シルクスクリーン版画の「UNTITLED-27」(1974年)で、自然のようにそこに存在しているグリッドへのブルーのノイズを痕跡化して以後、「上」に重ねて「下」を引き出すことが辰野登恵子の制作の方法でもあればテーマにもなったのだろう。

                    UNTITLED-27 1974年 シルクスクリーン・紙


                    WORK80-P17 1980年 油彩・カンヴァス


「UNTITLED-27」から「WORK80-P17」(1980年)、「87-P-21」(1987年)、「UNTITLED94-3」(1994年)、そして2012年の「望まれる領域Ⅱ」まで。イエロー・オレンジ系とブルー・グリーン系による作品を通して見えてこないだろうか。

                   UNTITLED94-3 1994年 アクリル・カンヴァス


                    望まれる領域Ⅱ 2012年 油彩・カンヴァス
             
(はやみ たかし)

※「与えられた形象 辰野登恵子 柴田敏雄」(2012年8月8日~10月22日国立新美術館)から取材しました。


新興美術に捧げて・・・


村山知義「美しき少女等に捧ぐ」


          油彩 カンヴァス 94×80.5cm 1923年頃 神奈川県立近代美術館
            

直線と曲線で縁取られた形が組みあわされている。グラデーションが施されているものもある。
比較的大きい形はどこかに開口部をもって他の形に連続し、小さい形は閉じたものがいくつか散在している。形を縁取る直線と曲線は相互に呼応し、同時に、離反しあってもいる。

「サディスティッシュな空間」(1922/23年 京都国立近代美術館)のように、迫り上っていく形が徐々に奥行きをつくりだしているという感じはない。あるいは、木や金属などを主材料にした「コンストルクチオン」(1925年 東京国立近代美術館)ほど空間感が希薄な即物的な雰囲気でもない。

左右中央に位置する黒い形は注目に値する。他の形との関係で「図」として見られると同時に「地」としても現れてくる。下の方に下がると緑味を帯びてさらにいっそう「地」として機能するものになっている。
そこに、左方の詰め物がされた布と、右方の胃のような形との左右での関係に気づくと、黒い形は中心に大きく置かれているにもかかわらず、中心性や求心性が弱められ、左右に拡張する空間が現れてくる。

最上部には15111217の数字、左隅には「美しき少女等に捧ぐ」のドイツ語、ほかにも文字や数字が記されている。書体が変えられていることは重要だ。数字や文字は書体を変えようが色を変えようが常に記号としてはオリジナル(本物)だ。りんごを描いた絵がコピー(再現)であることから逃れられないのとは違っている。
再現的ではない抽象的な形、「図」と「地」のコントロール、意味を脱臼してオノマトペーのように機能する文字と数字の「オリジナル」性、詰め物がされた布の文字や数字と同じ「オブジェ」性。20世紀モダニズム美術の問題群がことごとく取りあげられている。

重要なのは、こうしたもののすべては、「描写」とは異なる総合的キュビスムに由来する「組みあわせ」と、そこから派生したコラージュの方法で展開されていることだ。
20世紀美術のもっとも20世紀美術らしい発明である「組みあわせ」を、いち早く駆使して、いくぶんぎこちないとはいえ、力強く生き生きした動きを醸しだしている。日本の「新興美術運動」では貴重な作品だ。
(はやみ たかし)
2012年8月11日
※「村山知義の宇宙」展(世田谷美術館)で取材しました。