2012年12月11日火曜日

「大地を紡ぎ、空気と光を織る」ー山田正亮「Work」シリーズの絵画

 

            山田正亮 workB-136 1950年代後半


 早見堯

今回の「見ることの誘惑」は、20121220日刊行予定の美術雑誌「ART TRACE PRESS2号」に掲載されている、山田正亮の絵画についてわたしが書いた「大地を紡ぎ、光と空気を織る」です。
雑誌の紹介はこちらです。
「大地を紡ぎ、光と空気を織る」をお読みになる場合は下記リンク先からART TRACE PRESS2号」入手方法を確認してください。

            山田正亮 workC-400 1960年代後半

ここでは、山田正亮の絵画についてのわたしの評論について想いだしたことなどをメモにしてみました。

1、ART TRACE PRESS2号」「大地を紡ぎ、空気と光を織る」書き出しの部分
山田正亮の前に山田正亮の先駆者は見えない。山田正亮の後にも後継者としての山田正亮はみあたらない。山田正亮自身は一時期、日本の抽象絵画のパイオニアで、他の画家とはキャリアの異なる長谷川三郎からの影響をほのめかしたこともあった。長谷川三郎の絵画に影響されたというよりも、抽象絵画系の自由美術家協会の主導者長谷川三郎に、日本の他の美術家とは違う知的美術家のモデルを見て、それと自分とを同一化したいという思いがあったからのようだ。
他方で、1980年代、山田正亮の絵画が日本型モダニズム絵画の典型として脚光を浴びていたころも、山田正亮の絵画を継承展開しようという雰囲気はほとんど見かけたことがない。当時、山田正亮の高く評価されていた絵画がすでに過去のものとなってしまった1960年代の「ストライプ」の絵画だったからというだけではない。
山田正亮は1978年の銀座、康画廊での回顧展以後、日本のモダニスト絵画の重要な担い手とみなされるようになった。日本の抽象絵画の先駆者長谷川三郎からさらに小出楢重にまでさかのぼって日本近代美術史のなかにポジショニングさせたいとの誘惑にかられる。
けれども山田正亮の絵画は継承とか展開、あるいはなんらかの系譜といった通時的な文脈においてみた場合には位置づけにくい。絵画の歴史的展開やモダニズム絵画の還元などといった通時的文脈とか、様式的変遷の観点からするとモダニズム絵画の季節外れのレッスンとしか思われない。
ところが、「なにが絵画たりうるのか」とか「絵画の成立の条件はなにか」という問いに答えようとしているのが山田正亮の絵画だと理解するとよりよく見えてくるものがある。絵画の共時的構造の探求といいかえてもいい。山田正亮の絵画に先駆者も後継者もいないのは、山田正亮の絵画のこうした問題設定あるいは絵画への関心の持ち方に原因がある。
そして先駆者もなく後継者も寄せつけないところにこそ山田正亮の絵画の固有性があるのだ。こうした問いはモダニズムの絵画の自己批評性にとてもよく似ている。だから欧米モダニズム絵画の文脈に整合する絵画の変遷というふうに見えてきたりもしたのだった。

2、山田正亮について書いたことなど
康画廊での回顧展の後、雑誌「みづえ」で対談して以後、わたしは山田正亮の絵画に深くかかわるようになった。
1981年には作品集「山田正亮1950-1980」(佐谷画廊刊 1981年)で「山田正亮—面による思考」を書いてからすでに30年が過ぎてしまった。
1981年からバブル崩壊までの十年近くのあいだは、「机は脚だけではなく、頭でも立っている」という「資本論」のマルクスのことばが、文字通り絵に描かれたような時期だった。文化の流通と消費として取りあげ直される必要があると思う。その間に、山田正亮についての評論を20編以上書いたと思う。わたし自身も知らず知らずのうちに文化の流通と消費の共犯者になっていたのだった。
山田正亮の絵画を全体的にとりあげたものは、山田正亮—面による思考」以外にわたしの著作で4点ある。
一つは「山田正亮 Work on Paper 1950-87」(佐谷画廊刊 1987)所収の「描くこと、表面の発見/再発見」。
次に、ギャラリー米津から刊行された1989年「ストライプ」絵画と1990年の「グリッド&クロス」絵画。これらは山田正亮の絵画を二つのタイプに分けてそれぞれ通覧できる形にしたものだ。20世紀後半のモダンアート共通の「新しさの終わりとしての新しさ」ということができる「繰り返し(ストライプ)」と「分割(グリッド&クロス)」ということになる。
それから、1990年美術出版社からだされた作品集「WORK」での「絵画を生む絵画」。このタイトルは山田正亮の絵画が色や形、構成、タッチなどの絵画の要素のアナグラム的組み合わせによってつくりだされていると理解してつけたことを想いだす。フィリィップ・ライダーがフランク・ステラの作品を「エンジニアリングとしての絵画」と呼んだことに影響されているかもしれない。
わたしが独自に山田正亮の絵画の価値を見いだしたのではない。山田正亮を最初に価値づけたのは評論家の藤枝晃雄だ。
藤枝晃雄が開墾した土地にわたしは種を蒔いただけともいえる。生育不適格な種ではなかったのかと、時に確信が揺らぐことがなかったわけではない。あるいは藤枝晃雄がつくった曲をわたしは演奏していたのかもしれない。アドリブとアレンジが多すぎたような気がする。
山田正亮について書いたものも、そうではないものも、ある時期までの原稿のすべては、基本的には藤枝晃雄と藤枝晃雄を通して再認識したクレメント・グリンバーグの導きによって生まれたことは言っておく必要がある。
グリンバーグ著「芸術と文化」は瀬木慎一訳で繰り返し読んだ。あるとき、藤枝晃雄から原本をもらった。読んでみて、わたしは一体、いままで訳書からなにを学んでいたのか、と、驚かざるをえない部分も多々あった。それもすでに過去の想い出になってしまった。
山田正亮について書き続けていた1980年ごろからバブル崩壊のころまでの十年間、わたしの視野のなかには、常に、グリンバーグによって練り直されマイケル・フリードによって拡大再生産された「ピュア・オプテイカリティ」がちらついていた。
「ピュア・オプテイカリティ(純粋視覚性)」は、ハル・フォスターにならっていえば、文化的・社会的な視覚性の「ヴィジュアリティ」に対する、生理学的視覚である「ヴィジョン」のような位置づけになるのだろうか。
「ピュア・オプテイカリティ」はちょっと手強い。下手に扱うとアナクロの視覚になるし、いま現に見えているものを抑圧しなくてはならなくなる。
ロザリンド・クラウスがマックス・エルンストのオーヴァー・ペインティグ(減算コラージュ)を述べる際に援用した、フロイトの「ヴンター・ブロック」のように、見えるものは「いま、ここ」には還元不可能だということはすでに周知のことだ。「ヴンター・ブロック」では、下の蝋引き板の上にかけられているシートになにかを書いて、シートをめくると書いたものは見えなくなる。でも消えたわけではない。下の蝋引き板にはしっかり保存されている。わたしの子どものころには日本にもあった。
中沢新一の「アース・ダイバー」も「ヴンダー・ブロックwunderblock」の一変種だろう。
こんな感じが、いまは、自然だと思える。でも、文化は「自然らしさ」を越え出て行かなくてはならないのでもある。

3、ART TRACE PRESS2号」
とりとめもないこと述べてきたのは、以下の雑誌を紹介するためだ。
1220日刊行の美術雑誌「ART TRACE PRESS2号」に、わたしは「大地を紡ぎ、光と空気を織る」のタイトルで山田正亮の絵画について書いた。
創刊号で先鋭な美術雑誌との定評をえた「ART TRACE PRESS」は、創刊号のジャクソン・ポロック特集につづいて、第2号ではキッチュ評論家石子順三(今年、府中美術館で充実した展覧会が開催された)、先頃亡くなられた画家宇佐美圭司、ポロックなどと並んで山田正亮が特集されています。
ART TRACE PRESS2号」には早見堯のほかに林道郎、松浦寿夫、岡崎乾二郎、峯村敏明、永瀬恭一など先端的な評論家やアーティストが執筆しています。
下記の書店で取り扱っています。
ジュンク堂書店 池袋本店 >>
東京堂書店 神田神保町店 >>
丸善 丸の内本店 >>
東京国立近代美術館 ミュージアムショップ >>
DIC川村記念美術館 ミュージアムショップ >>
下記のNADiff各店舗 >>
 NADiff a/p/a/r/t
 NADiff contemporary  (東京都現代美術館 ミュージアムショップ)
 gallery 5 (東京オペラシティアートギャラリー内)
 Contrepoint (水戸芸術館 ミュージアムショップ)
 NADiff 愛知 (愛知芸術文化センター アートショップ)