2015年12月11日金曜日

モダニストー藤田嗣治 東京国立近代美術館の展覧会 2015年12月

モダニストー藤田嗣治

「神兵の救出到る」1944年 192×357cm 
         油彩・キャンバス 東京国立近代美術館

               「神兵の救出到る」1944 

2015年12月初め、東京国立近代美術館でいくつかの展覧会を見た。どの展覧会もとても刺激的だった。美術館について、いろいろと想いをめぐらせることができた。
ここでは、それとは別に、三つの展覧会について書いた。最後の藤田嗣治の、いわゆる「戦争画」、「神兵の救出到る」が今回のメインだ。
       
1.Re;Play 1972/2015—「映像表現 72」展、再演」展
Re;Play 1972/2015—「映像表現 72」展、再演」展会場では、柏原えつとむさんのインタビュー・ビデオと映像作品「足を洗う」を見た直後に、ご本人に、ほとんど20数年ぶりだと思うが、偶然、再会し、思わず握手してしまう出来事もあり、なんだかエキサイトしてしまった。横浜のBゼミアートスクールでの合評会以来かもしれない。
「映像の物質性」や「繰り返し」、まだ高価だったビデオ機器による「遅延」映像など、映像が「美術」の有効なメディアとして注目され始めた1970年代初めの熱気が十分に伝わってくる。この展覧会でも記録されている辻勝之の映像批評を「美術手帖」で熱心に読んだものだった。
わたしは、当時、京都で開催されたこの展覧会を見たことはない。「美術手帖」を通して知っていただけだ。いま、こうして見て、とりわけ注目すべきは次のことだと思うようになった。
できあがった映像を素朴に提示するのではなく、映像というイリュージョンが生成される仕組みや仕掛けが、映像とともに提示されている。だからインスタレーションのかたちがとられている。
そもそも、映像はイリュージョンでいいのか、あるいは、イリュージョンなのか、と問いかけてくる。モダニスト・アートの核心となっていたメディアの自己批評性、さらに、自己言及性につながる。自分自身を振り返ってアイデンティティを確認する近代的個人のあり方と関係させて考えればわかりやすい。
「映像とは何か?」という不毛な問いではなく、「何が映像たりうるのか?」といった映像成立の仕組みや条件を問う生産的な問いなのである。1960 年代に宮川淳が表現過程の自立という言葉で示そうとしたことがらは、おそらく、これだろう。
Re;Play 1972/2015・・・」展それ自体が、自己自身に問いかけているセルフ・レファレンス状態の展覧会なのだ。当時は、美術がコンセプチュアリズムに傾斜していく時代だった。この時代の気分は、美術がアートなどと呼称されて、惰性化しているのか成熟しているのかわからない現在とはずいぶん違っていた。
1920年代のマン・レイの「理性への回帰」に始まり、日本では、「映像の発見」の松本俊夫などによる「銀輪」で美しい映像になって展開された、映像の物質性とか映像メディアに固有の残像現象の純粋化などのポジションから「Re;Play 1972/2015・・・」展をとらえ直すのも興味深い。考えてみる価値が十分にある。
こうした熱気が続いていた1975年の京都市立美術館で「京都ビエンナーレ」展が開催された。わたしも展覧会企画者の一人として沸騰する現代美術の末端に参加した。もう40年前の出来事だ。

2. 「てぶくろ|ろくぶて」展
 東京近美の、もう一つ別のコレクションによる企画展示「てぶくろ|ろくぶて」。2008年に開催された「わたしいまめまいしたわ self/other」を継承展開する、とても良い展覧会だ。昔、二子玉川の岡崎和郎のアトリエを訪れたことを想いだしながら会場をまわった。映像作品では、懐かしいブルース・ナウマンやヴィト・アコンチを見ることができた。ビル・ビオラなどとはずいぶん違う。自己言及性で「Re;Play 1972/2015・・・」展に重なってくる。
こちらは、メルロー・ポンティの「見る/見られる」や「触る/触られる」の間主観性や、ロザリンド・クラウスが「オリジナリティと反復」でヴィト・アコンチについて指摘したナルシシズムも引用されていて、展覧会の基本コンセプトの一つになっている。
クラウスが同時にとりあげたロマン・ヤコブソン風な発話者によって指示対象が変化する「わたし/おまえ」のシフター(転換子)から考えれば、「見る/見られる」や「触る/触られる」とナルシシズムとの関係がよりわかりやすくなるかもしれない。これは、当然、自己言及性と深い関わりがある。自己言及とくればダブル・バインド、そして、そのループを脱出する方法は?といったかたちの問いかけにいたらざるをえなかった。当時の思考の展開の典型的なパターンだ。
美術のコンセプチュアリズムに影響を与えたヴィトゲンシュタイが、日本で人口に膾炙するのはもう少し後だったかもしれないが、当時、メルロー・ポンティの思考はとても魅力的で、ポンティにとらえられなかった美術家は美術家とはいえないとさえいえるような状況だった。
この二つの東京近美の企画展示はシンクロしながら、モダニズム美術の成熟したシーンをあらためて眼前に突きつけてくる感じだ。

3.「藤田嗣治、全収蔵作品展示」
東京近美でもう一つの興味深かった展示は、コレクションの「藤田嗣治、全収蔵作品展示」だ。藤田嗣治は、十年前の2006年にも東京近美で充実した展覧会が開催された。わたしは、そのときには、藤田嗣治がモダニズムのアヴァンギャルドだとの認識はほとんどもっていなかった。今回の展示を見て、その時、気づかなかったことや見落としていたことが多くあったことに気づかされた。
いまさらのように気づいたことの一つは、藤田はバリバリの絵画のモダニストだったのだということだ。

パリを中心にヨーロッパで注目され始めた1920年代、藤田は多くの秀作をうみだした。東京近美のコレクションでその時代の作品は1923年の「五人の裸婦」だ。世評に高い「乳白色」の魅力的な表面は、京都近美の「タピスリーの裸婦」に匹敵している。二つとも、装飾的な背景が「乳白色」の皮膚に対抗して前方にせり出してくる。1920年代のアンリ・マチスの絵画を薄く半透明にしたかのようだ。

                 「五人の裸婦」


                「タピスリーの裸婦」

2006年の展覧会で展示されていた作品で、初めてヨーロッパの公立美術館に購入されたといわれている1921年の、色彩感を抑制しながら白と黒とのコントラストを中心にして、前景の人物と背景の壁とを浅い空間のなかで対比させた「自画像」(ベルギー王立美術館)や、翌年の「横たわる裸婦」(ニーム美術館)。この二つには、以後の藤田の作品のすべてが予兆されているように思われた。

                                        「自画像」(ベルギー王立美術館)


                                     「横たわる裸婦」(ニーム美術館)
より重要なのは、人物がこちらを向いた正面視で描かれていることだ。浅い空間、前景と背景とのコントラストや前進する背景。それは、モダニズム絵画の平面性を踏襲している。人物の正面視性は平面性に拍車をかけることになる。

東京近美に展示されている作品のなかの、たとえば1929年の「自画像」では、机から床、そして壁と画面の下から上に向かってジグザグに連なりながら空間が上方に迫り上る。リアルな空間表象ではなくて抽象的で平面的な空間構成だ。歌川広重や、それに連なるエドガー・ドガさえ連想させる。そこに面相筆による繊細華麗な曲線と直線が表面を仕切っている。

               「自画像」1929


                                                    エドガー・ドガ アプサント

衣服に 注目したい。かすかにグラデーションが施された表面は、曲線で皺が描かれている。絵画のほかの部分から切り離して衣服だけを見つめると、線は空から見た山脈の稜線を想起させずにはおかない。すなわち、連続した表面が稜線を頂点にして左右上下に後退していく。すべての山脈は連続しているので、前と後といった関係をつくることはない。
ピカソが1908年に描いた「三人の女」で、レオ・スタインバーグとウイリアム・ルービンが、ピカソをめぐる論争のなかで指摘した背後のない前方だけの立体感のバリエーションではないだろうか。ここでの稜線の比喩も二人から借用した。

                  ピカソ「三人の女」
立体感はあっても背後がない、すなわち、前景だけというところが重要だ。起伏はあっても表面が連続している。それが平面性の前提条件だ。
ピカソは1908年以後、これを推し進めて、断続的な線で必ず開口部をもつように面を仕切って、画面全体の連続性を維持し、平面的なままで具体的な形象を表現しようとした。いわゆる分析的キュビスム絵画の定番だ。
20世紀前半には、同じコンセプトで違ったイメージの出現が試みられていたことも指摘しておきたい。マウリッツ•コルネリウス・エッシャー「爬虫類」では、何もない平面が仕切られ分割されて形が生まれ、それが、さらに三次元空間にふさわしいように立体に変容していくプロセスが図示されている。空間の次元の違いに応じて存在できる形も違うことが示されている。

            マウリッツ•コルネリウスエッシャー「爬虫類」

形は、それが置かれる場、あるいは文脈によって決定される。二次元空間の平面には、前景と背景、図と地が分節される以前には連続してつながった一つの表面があるだけだ。そこに、何らかの痕跡が施されることによって形が生成され始める。

だが、二次元の平面の場合は、表面の連続性を壊してはならない。なぜなら、表面の連続性を壊すことは、連続した一つの表面が図と地に分節されることになるからだ。前と後ろが生まれる、すなわち、伝統的な三次元的な空間のイリュージョンを出現させかねない。点や線の痕跡によって表面が分割されようとも、表面の連続性は維持されなくてはならない。これが、モダニズムの絵画が要請していた絵画に固有の平面性だったのである。

分割されていようとも連続した表面による平面性と、画面のすべてが見る者の視野に一挙に一つの全体として現れること。
たとえば、バーネット・ニューマンのジップは画面を分割すると同時に結合させてもいた。フランク・ステラの繰り返しは、画面全体が一つであることを壊すことはない。
図と地が分節されないで画面が領域に分割され、しかも結合されていること。画面全体が一つであること。1960年代の「ワン・イメージ・ペインティング」を思いおこしたい。
この二つこそが、モダニズム絵画をモダニズム絵画にさせている基本要件なのではないだろうか。
藤田嗣治の1929年「自画像」での衣服の皺は、全体が連続して一つであるままに、線によって分割されている。その線は空から見た山脈の稜線のような機能を果たしている。表面を切断しながら結合させ、かすかなグラデーションで前方にせり出す奥行きをつくっているのだ。
こうした様子は、2006年の展覧会で展示されていた「ライオンの檻のある構図」での、連なる裸体群像においていよいよ明確になっている。

「ライオンの檻のある構図」

               「アッツ島玉砕」
乳白色とは正反対の黒褐色で全体が覆われると「アッツ島玉砕」になる。「ライオンの檻のある構図」で躍動していた裸体群像は、ここでは連綿と折り重なった死にまみれた兵士群像に変えられている。
けれども、連続した表面を維持したまま線による分割が行われているのは、乳白色の絵画と同じだ。最初期の1921年の「自画像」で用いられていた白に対抗する黒褐色が、「アッツ島玉砕」をはじめとする戦争画で多用されているだけだ。
藤田は、ここでもモダニストのままだ。「ライオンの檻のある構図」や「アッツ島玉砕」のような人物群像の絵画は、妄想をふくらませると、草間彌生のミニマリズム風の網目の絵画に呼び起こす。同じようなモチーフが、画面全体で繰り返されて、表面が連続し画面全体は一つになっているからだ。

                  草間彌生

藤田の戦争画成功の要因は、網目が繰り返されるように、同じような人物を画面全体で繰り返すことで、一挙に絵画の全体が見る者の視野をとらえてしまうからだ。視覚的なインパクトが強い。こうした瞬間性と全体性こそがモダニズムの表現言語の基本だったのである。

話が脇道にそれるが、「ライオンの檻のある構図」と「アッツ島玉砕」とを同じ眼差しで見ていると、会田誠がこれらからインスピレーションをえて、「ジューサー・ミキサー」を描いた気持ちがわかるような気がする。裸体も死体も恍惚とした裸の少女として描かれている。

                  会田誠 ジューサー・ミキサー

蘭印作戦のクライマックス、スマトラ島のパレンバン、パラシュート降下挺身隊の絵画では、藤田は、国民をエキサイトさせる演出効果では、今回、コレクション展で展示されていた鶴田吾郎の「神兵パレンバンに降下す」にはおよばない。
鶴田吾郎の遠景を彩る桜花が舞うかと見まがいかねない降下挺身隊と、見る者の眼前の近景に描かれた攻め込む地上の決死の挺身隊。藤田の同じモチーフの絵画よりも、当時の国民を歓喜させたに違いない。歓喜させた最大の理由は、真珠湾攻撃の成功の記憶を想起させるテーマ「奇襲」が遠景では華やかに、近景では勇壮に演出されていたからだろう。
パレンバン降下では、鶴田吾郎は遠景と近景を画面の上と下とで対比させることで、遠景も近景も同一平面上で一挙に見る者の視野をとらえてしまう。こうした平面上での対比こそがモダニズム絵画の本領だ。

                                    鶴田吾郎の「神兵パレンバンに降下す」


              藤田嗣治 大空に花と咲く挺身落下傘部隊の活躍 パレンバン

藤田が「奇襲」をテーマにして描いた別の絵画が、東京近美に展示されていた。 「神兵の救出到る」だ。
降下挺身隊のその後の光景だ。オランダ人によって奴隷状態にされていた原住民を救い出す日本神兵。ドアを開けて侵入した神兵と、彼を見つめる猿ぐつわの女子原住民。前景の部屋には酒瓶や衣類が散乱している。たった今まで、享楽の宴が催されていたことを物語っている。

               「神兵の救出到る」
藤田は、ここでは、モダニズムの瞬間性と全体性とは異なる、時間的で物語的な表現に挑戦している。
一挙に出来事が炸裂する、いわば、モダニスト言語的な「奇襲」のテーマを、それとは異質な物語的な表現へと展開させようとしているのだ。
物語は、西洋風に左から右へと展開される。左の壁には大きな絵画がかけられている。暗くてよくわからないが、「奇襲」や救出に関わる絵画のテーマを推測してみると、ギリシア神話のプロメテウスを救出するヘラクレスあたりではないかと思う。
掛けられた絵画の手前には花鳥画のように鳥が大きく描かれた衝立てが置かれている。絵画の中の左側のプロメテウスは人間に火を教えたために、昼間、肝臓を鷹についばまれるという過酷な罰を与えられて岩山に縛られている。英雄ヘラクレスが鷹を殺して助け出すのだ。



日本の蘭印作戦は燃料エネルギーの石油確保が目的だった。火力のもとになる石油を所有しているはずなのに、今は奴隷状態で半西洋化した原住民女子を英雄の日本人神兵が救出する。「火」=「エネルギー」がキーワードになっている。藤田はこう構想したのだろうか。
けれども、藤田は物語的な表現を試みているだけではない。全体を一挙に知覚、というモダニズムの基本に、ここでも忠実だ。
壁の絵画とこの部屋の光景は、上と下とでシンクロしてわたしたちの視野を一挙にとらえてしまう。壁の絵画のサイズはかなり大きい。
ここでは、モダニズム絵画の典型的な方法「並置」が使われているとみなすことができる。
コラージュやシュルレアリスム絵画での異質なものの「並置」、モンドリアンの色面の「並置」などは、たとえば、1970年代のブライス・マーデンのようなミニマリズムの「分割」によってあらたな展開をした。
モチーフ同士の「並置」は、逆から考えると、全体の「分割」なのだから。共に平面性が前提にあってはじめて機能する。


                                       パブロ・ピカソ 紙によるコラージュ絵画


               異質なものの上下での並置
             ルネ・マグリット アルンハイムの領土


                                      ピート・モンドリアン 赤黄青のコンポジション チューリヒ美術館


 ブライス・マーデン  For Pear

「神兵の救出到る」に戻ろう。
衣類などの日常雑貨が散乱し荒廃しかけた部屋で猿ぐつわをされた原住民女子は、日本兵の察知を遅らせるために、あわてて脱出したオランダ人によって縛られたのだろう。
ネックレスや白い西洋風の衣裳の様子から召使いとは考えられない。現地妻とか情婦だと考えてもいいように思う。いずれにしても、西洋人と西洋文化の虚飾の麻薬に侵されているということが着眼点だ。
テーブルの上には百合ではないだろうが、長い花びらの白い花が器にいれられていて、女に部分的に重なっている。



唐突だが、このシーンに「受胎告知」を、わたしは思わず連想してしまった。
神の使いである神兵は天使ガブリエル。西洋の文化に染まっていた女は、乱れきった西洋社会(部屋)に囲まれながらも、自分で気づかないうちに「神=日本」の子どもを宿していたわけだ。受胎を告知されるマリアが重なる。


                                   シモーネ・マルティーニ 受胎告知


                                               藤田嗣治 受胎告知 1927


                                  神兵の救出到る」 兵士と女

テーブルの下には猫がうずくまって神兵の方を見ている。猫は藤田の分身といってもいい。だとしたら、女は西洋文化の渦中で生活してきて、いままさに、「奇襲」の稲妻のように「日本文化」という神の子を宿していることに、いまさらのように気づいた藤田自身だとさえ思いたくなるほどだ。
モダニスト藤田嗣治は、ここでは同時に皇国の国民でもあった。

奥の部屋をてみよう。
左のの下の台に置かれているのは化品やスタンドなのだろうか 
手前の部屋が男子の部だとしたら、男子の部屋に入れ子状になった奥の部屋は女子の部だ。壁に掛けられた絵画は、どうやらヴィーナスに鏡かなにかをさし出しているキューピッドのようだ。
化粧とヴィーナスと鏡だとしたら、女子の虚栄がテーマということになる。




手前の部屋の「救出」、奥の部屋の「虚栄」。二つの部屋は対になって「並置」されている。同時に、手前の部屋の壁の絵画とフレームに入れられたような奥の部屋も「並置」されているのではないだろうか。
「神兵の救出到る」では、「奇襲」という瞬間的なもの、あるものと別なものとの「並置」による同時的な対比といったモダニズム絵画の平面に即した基本言語が用いられている。そうしながら、それとは異質な時間的で物語的な表現が試みられている。
「並置」はモダニズム絵画のなかでは「繰り返し」と異母兄弟だ。「分割」はそれらと表裏一体の関係になっている。

ここでの物語的な表現を三次元的な対象の表現に置き換えれば、藤田のほかのすべての絵画にも該当する。極端にいえば、ピカソの「三人の女」や分析的キュビスムなどの絵画と同じようにモダニズム絵画の問題にアプローチしているのだ。
こうして、藤田は、戦争画であろうと裸体画だろうと自身のすべての絵画で、藤田が生きた20世紀のその時代に寄り添い、時代の先端的なモダニズム絵画の方法を咀嚼して活用していたことがわかる。
藤田嗣治は、いつも、モダニストだったのである。
(はやみ たかし)

※東京国立近代美術館で2015年125日に取材したすべての展覧会がもとになっています。
※画像は東京国立近代美術館発行の図録、その他から再録しました。


2015年10月11日日曜日

青春の風景 アルフレッド・シスレー

見ることの誘惑 第40

青春の風景 

アルフレッド・シスレー「サン=マメス六月の朝」
1884年 油彩 キャンヴァス 54.6×73.4cm  東京 ブリヂストン美術館




東京のブリヂストン美術館でシスレー「サン=マメス 六月の朝」の前に立つと、いつも、小川国夫の「アポロンの島」を想いだしてしまう。
なぜなんだろう。

練馬美術館のシスレー展でこの絵の前に立った時、「アポロンの島」と一緒に、最近読んだばかりだった又吉直樹の「火花」も想いだした。
そういえば、高樹のぶ子の「光抱く友よ」も同じタイプの「青春」小説だったなあ、と、いまさらのように反芻したりしたものだ。
昇華する方法がみあたらない心の迷走が、ほろ苦く、切なく輝いているといった雰囲気がこれらの「青春」小説にはたちこめているような気がする。
なかでも「アポロンの島」は高揚と沈静を繰り返す繊細微妙な気分が秀逸だ。
清新で透明な空気がみなぎっている。

シスレーの絵画にも同じような清新さや透明感を感じる。
1870年代半ばの印象主義の「青春」といった雰囲気を、生涯、もちつづけたのは印象主義の画家のなかでシスレーだけではないだろうか、とも思う。

「サン=マメス 六月の朝」は、他の印象主義の仲間と同じように、シスレーにとっても転機になる1880年代の半ばに描かれている。
パリの南東、フォンテーヌブローの森の近く、セーヌ川とロワン川が合流するあたりに移り住んで「サン=マメス六月の朝」などを描いた頃も、それ以前、1870年代、パリの西、ルーヴシエンヌやマルリー=ル=ロワで描いた絵画と大きく違ってはいない。
いつも清新で透明な空気があふれている。
それはどこから、どのようにして生まれているのだろうか。
凡庸だとか温和だとかともいわれてきたシスレーの絵画。
はたして、そうなのか。
(未完)
・・・・・・・
※つづきは、目下、作成中です。
近日中にアップ予定です。

※この文は次の展覧会で取材しました。
アルフレッド・シスレー展—印象派、空と水辺の風景画家 
東京 練馬美術館 2015920日〜1115