2015年2月10日火曜日

ノイズに開かれたオーバーレイなセンス 「クインテットⅡー五つ星の作家たち」展 平体文枝「小さく羽ばたくⅡ」 


第三十四回 ノイズに開かれたオーバーレイなセンス

平体文枝「小さく羽ばたくⅡ」
2013年、油彩、オイルスティック、キャンバス、60×92cm

              平体文枝「小さく羽ばたくⅡ」
  
横浜美術館でホイッスラーの絵画を見た。
1870年代の「ノクターン」シリーズは色調が安定していて、見ていると、静かな気分の震えがおきてくる。

               ホイッスラー「ノクターン」

「ノクターン」(1875-77年 ハンテリアン美術館 グラスゴー大学)は灰色と青緑色が油絵の具を薄く溶いた「ソース」状態で塗られている。海辺の光景なのだろうか。水平線や遠くの岸辺の建物、あるいは海上の舟とその反映らしきイメージが影のように重ねられている。
舟と思われるイメージは水平線に向かって後退する海景(?)に対して、そうした空間とは異質な画面の物理的な表面に位置させられているかのように見える。

ブリジストン美術館や川村記念美術館のモネの「睡蓮の池」の、睡蓮の水面と水面の反映という二つの表面に似ているかもしれない。
重ね描きとかオーバーレイなセンスといっていいだろう。
ホイッスラーの絵画では、さらに、遠くの岸辺と海上に、蛍が舞っているかと錯覚させるほどの黄色い明かりとその反映がゆらめいている。
ジャポニスムと関連づけて語られることが多い、よく知られた「ノクターン:青と金色—オールド・バターシー・ブリッジ」(187273年、テート美術館)でも黄色の斑点は明かりや花火として散りばめられている。

                  ホイッスラー
            「ノクターン:青と金色—オールド・バターシー・ブリッジ」

先の「蛍」や花火をノイズとはいいたくないが、装飾的なアクセントに堕しかねない危うさがある。
画面全体のまとまりを密かに撹乱していると見なされなくもない。
こうした「まとまり」の危うさや、オーバーレイ的に層をなす複数の異質な表面が、おそらくホイッスラーのジャポニスムなのかもしれない。
密かな撹乱やオーバーレイなセンスが興味深い。

視覚的な強度を求めて、視覚の本性にふさわしく、全体を一挙に知覚する「全体性」と「瞬間性」を旨としたのがモダニズムの絵画だ。
立体の地球儀に対する、平面のメルカトル図法による世界地図がモダニズムの絵画の比喩だといえばわかりやすいだろうか。
意外なことに、モダニズムの絵画には「全体性」と「瞬間性」を撹乱するノイズや複合的なオーバーレイの例を発見するのは簡単なことだ。

典型的なのは、モダニズム絵画の鼻祖ともいうべきエドゥワール・マネである。
「オランピア」では、周知のように、黒猫とオランピアが履いたままのサンダルはノイズというよりも、西欧の伝統的なシンボリックなアイコンの機能が流用されている。
黒猫の気まぐれはいうまでもなく、脱いで置かれたサンダルなら聖なる儀式を象徴するのは古代エジプトにも作例がある。履いたままのサンダルはその逆ということになる。
同じマネの「草上の昼食」の左右中央上方のコマドリと左下隅のカエルは、伝統的なシンボルとしては「性愛」を暗示するアイコンだ。
盛期ルネサンスの定番、ピラミッド型の構図の頂点と左下角に配置され、古典主義的なセンスが脱構築的に処理されている。挑発的なノイズではないだろうか。

図像解釈学とかアレゴリー的なアプローチでは理解できないのは「鉄道(サン・ラザールの駅)」の画面右下の一房のぶどうだ。
広重の「名所江戸百景 浅草田圃酉の市」の窓辺にL字型に置かれた手拭いを参照すると、シンボルやアレゴリーとしてではなくて、フォーマルな読解ができる。
「鉄道(サン・ラザールの駅)」の奥行きが閉ざされた平面的な空間で、こちらを見る婦人と向こうを見る少女との記号的な相同物となっていることがわかる。
もちろん、マネのノイズはモダニティのインデックスとして「いま、ここ」を指し示している場合もある。「バルコニー」での、トレンディなアイテムである紙巻タバコや紫陽花、ペットのキャバリエ、扇子などがそうだ。

東郷青児記念・損保ジャパン日本興亜美術館で「クインテットー五つ星の作家たち」展の絵画を見たのは、ホイッスラー展を訪れた後だった
会場を巡っているうちに、ホイッスラーのノイズやオーバーレイから、先に述べたマネのノイズを想いおこしたのだった。

平体文枝の「小さく羽ばたくⅡ」(2013年)や「地上へⅠ」(2014年)は丁寧に塗り重ねられた絵具の層の上や間に蝶や蝶に似た断片が浮かんでいる。

                   平体文枝「地上へⅠ」2014年 53×41cm

不透明に揺れるかのような表面は、イメージとしての表面は、表面に平行した左右の関係ではダブルネスであると同時に、画面の下層と上層では複数のレイヤーが重なっているように見える。
その結果、映像的になっている。
だから、生成消滅を繰り返す鼓動のような束の間のうつろいがとらえられていると感じさせられる。

わたしは、ホイッスラーの黄色の斑点の「蛍」や花火、明かりとその反映を想いださないわけにはいかなかった。
昨年、惜しくも亡くなった辰野登恵子は自分の絵画について「上を描いて下を引き出す」と語っている。油彩画の伝統的なスカンブリングを意味していた。
別な方向から考えてみよう。
辰野登恵子のスカンブリングの応用は、ロザリンド・クラウスが「主の寝室」で、マックス・エルンストのいわば減算的コラージュ、あるいはオーバー・ペインティングの「主の寝室」をとりあげながらもちだしてきた、フロイトが強く興味をもった「ヴンターブロック」と比較したくなる。
「ヴンターブロック」は、もともと子どもの落書き用の玩具だとされている。
蝋引きされた支持体にかぶせられたシートに尖筆で絵を描き、シートをもちあげて蝋引き板から引き離すと絵は消えたかに思わる。
でも、実際には無意識の記憶のようにそれまでに描かれた絵は蝋引き板に残り続ける。
消去しても残り続けるパソコンの記憶装置のデータを想いおこせばわかりやすい。

目下、ギャラリーαMで展開されている北澤憲昭と和田浩一のキュレーションによる「パランプセスト—重ね書きされた記憶/記憶の重ね書き」展も、同じような問題を提起していて興味深い。
唐突だが、立体物の上に映像を重ね描きするマッピングは、オーバーレイなセンスを共有している。
複合的な記憶が、「いま、ここで」、イメージとなって再生産されているわけだ。

平体文枝は絵具の層を丁寧に重ねながら下の層の輝きを引き出している。
蝶や蝶に似た断片は層がつくる空間の間にいる場合もある。
けれども、注目したいのは、つくられた空間とは異質な画面の物理的な表面に張りつけられているかのように見える蝶だ。
空間に対するノイズ、つまりもう一つ別の異質な空間を指し示している。
つくられた空間を窓から見える景色に喩えるなら、ノイズの蝶は窓ガラスに張りついた蠅のような存在だ。
画面につくりだされたイリュージョンの空間と物理的な画面の表面とが異質であることに着目したい。

平体文枝の蝶に興味をいだいたのには、わたしなりの理由がある。
「クインテットⅡ」展の前に見たホイッスラーが自分の名前の頭文字のJやM、Wなどを組み合わせたモノグラム的な蝶の「花押」と、平体文枝の蝶が重なったからだ。
ホイッスラーでは、横浜美術館には展示されていなかったが、より鮮明に蝶や蝶の「花押」が描き込まれている絵画がある。
「灰と緑のハーモニー:スィスリー・アレグサンダー」(187273年、テート美術館)だ。はっきり蝶だとわかる「花押」が記されているばかりか、スィスリー嬢の頭や花の上に蝶が描かれている。髪につけたリボンにも蝶がいるようにさえ見えてくる。
わたしは、ホイッスラーにも平体文枝に似た異質な空間のハイブリッドな組み合わせ、すなわちオーバーレイなセンスを感じたのだ。

そのとき、安西冬衛のよく知られた一行詩「春」が、なにげなく、浮上してくることに、わたしは気づかないではいられなかった。

 てふてふが一匹 韃靼海峡を渡って行った

「てふてふ」と「韃靼(だったん)」の音の感じや、蝶の羽ばたきによる温感に対する樺太の間宮海峡の冷感などの異質感と共鳴感は、平体文枝やホイッスラーの蝶や花火、明かりと空間とのズレと和合の感じに似ている。

「クインテットー五つ星の作家たち」展で展示されていた、他の作家もおおむね同じようなセンスを共有していると、わたしには感じられた。
富岡直子の捩じれて広がる反映、岩尾恵都子の色調が変幻する風景とノイズのようなモチーフ、水村綾子の沈んだ色彩のフィールドのせめぎ合いとノイズ的なモチーフ、山本晶の透過しあうサンプリングされた色面と建築モチーフのノイズ性。

 富岡直子「あけぼの」2014年

岩尾恵都子「edo」2003年

水村綾子「残響」2012年

山本晶「soughing」2012年

それらは、ノイズに向かって開かれたオーバーレイな空間のセンスを感じさせるのだ。
あるいは、重なりあう絵画の表面、混ざりあう感覚といってもいいかもしれない。
記憶と現在とが流通し混ざりあいながら、不確かで束の間のとらえがたい感情のうつろいを経験させられた。

わたしは、こうしたセンスは、1980年代のいわゆる新表現主義やニュー・イメージ・ペインティング、わたしなりの用語では「ポスト・アブストラクション」のアンゼルム・キーファーやデイヴィッド・サーレなどの絵画にわかりやすいかたちで展開されていると思っている。
この時期のこうした傾向のアーティストは、おおむね、モダニズムが達成したアブストラクションのアンチ・イリュージョンの平面性や物質性に関わる表現方法を、他のイリュージョニスティックな方法と混ぜ合わせて使っている。それが、固有の特徴だ。

デイビッド・サーレ「テニスン」

サーレの絵画では、グリザイユの裸婦がつくりだすぎこちない空間性と、それに似ていながらも、そこから引き離された、文字やべたっと塗られた絵の具や円、オブジェなどがつくりだす絵画の表面の物理的な物質性という二つの表面が対立し拮抗している。
アブストラクションの方法を流用して、アブストラクションもその一つであるモダニズムの絵画の「全体性」と「瞬間性」を、ハイブリッドな空間へと変容させていたのだった。

いずれにしても、「クインテットー五つ星の作家たち」展の絵画からは、ゆれながらうつろっていく感情の鼓動を経験することができた。
こう書いているうちに、東京国立近代美術館のコレクション、藤島武二の「うつつ」を見た時にいつも想像する、そこに描かれている女子の思いを想いだしてしまった。
なんだか不思議な気分だ。
(はやみ たかし)

※このテキストは次の二つの展覧会から取材しました。
「ホイッスラー」展;横浜美術館 2014126日~201531
「クインテットー五つ星の作家たち」展 東郷青児記念 損保ジャパン日本興亜美術館 110日~215
※ホイッスラーと「クインテットー五つ星の作家たち」展の作品画像は、それぞれ図録から借用しています。