2015年5月11日月曜日

絵画にまだ問題はあるのか—「VOCA 2015」展から

見ることの誘惑 第36回
絵画にまだ問題はあるのか
「現代美術の展望(VOCA 2015)」展から

今井俊介「untitled 1 アクリル、カンヴァス 180×200cm

                今井俊介   untitled 1

VOCA展は1994年に始まっている。以後、モダニズム系の価値観を維持して作品を選択してきたようにみえる。視覚性の重視、いま、ここで見えてくる作品のルックスに重きをおくということだ。こうしたポジショニングには共感できる。
でも、その頃、美術は大きな変わり目だった。VOCA展が始まった1990年代半ばの美術の状況を振り返ってみると、視覚性やルックス重視だけではこころもとない感じがあった。今では、超絶技巧だの、「すごいすごい」の大合唱が聞こえてくるだけで、絵画としての問題提起はなく、凡庸な表現性の作品が現れ始めたのがこの頃だった。そういう状況だと、視覚性だのルックスだのということを鋭く突き詰めて先端的な問題を掘り起こさないと「すごいすごい」の絵画の日陰に追いやられてしまいかねない。
そんなことをぼんやり思いながら、VOCA展の会場をまわった。全部見て、展覧会を一言で特徴づけるとどうなるんだろうと考えているうちに、最初に浮かんできたことばが「他者性」だった。どうして「他者性」なのか。自分につっこみをいれてみた。

たとえば、岸幸太の写真作品は「他者性」の一つの典型ではないだろうか。
パリコミューンで蜂起した労働者の写真に、制作者=労働者としての作者の姿がシルエットになって定着されている。過去の写真のなかに、写真を操作している今の現実が侵入している。作品のなかに作品以外の外部、すなわち他者が入りこんでいる。
これを見て想いだしたのは、30数年前に亡くなったピンホール写真の山中信夫だ。自室をカメラに見立てて窓側に開けたピンホールから風景の光を部屋中にはり巡らされたフィルムに写しとる。そのとき、カメラの内部、つまり部屋の中のものも定着される。メタレベルとオブジェクトレベルの混合だ。そういう表現方法を「労働」というテーマでリサイクルしたところが評価されたのだろう。「他者性」の方法をうまく使って表現に結びつけているとは思う。
ただ、ここでは、もう一つ違った「他者性」がある。「パリコミューンで蜂起した労働者の写真に、制作者=労働者としての作者の姿がシルエットになって定着されている」と、わたしは、なんでもなさそうに書いてしまった。それはこの作品の注釈を通して知ったことだ。知らなければ、カスパール・ダーフィト・フリードリヒの「雲海の旅人」を崇高から引き下ろし、日常の場で、フォトグラム風味を加えて展開し直したんだなあと思っただろう。

もっと違った「他者性」のシーンもあった。小野耕石のHundred Layers of Colors。シルクスクリーンで版を相当数重ねている。その結果、絵の具のわずかな厚みがでて、見る位置によって違って見える。これはタイトルでも示唆されている。作者自身の「前後左右に動きながら見てください」とのバーネット・ニューマン風なコメントもあったらしい。加えて、VOCA展は作品の推薦者の解説つきだ。作者や推薦者の注釈で作品の受け取り方の方向はかなり規定されてしまう。
ここでは「他者性」が二つある。一つは、作者や推薦者の注釈という外部。もう一つは、観客の見る位置によってルックスが違う、いわば「観客の参加」というような外部だ。
話が回り道をしてしまうが、VOCA展でもう一つ別の観点から興味深いのは、審査員の審査評だ。6名の審査員はなにを言って、どんなポジションをとろうとしているのだろうかといった感じで、いろいろな人の意見は興味深い。作品についての言説が世間に流通し、多くの人の間で同じように理解が共有されていくプロセスを目の当りにしているような気分になる。作品についての言説は、審査員すべてが同じデータを共有しているからなのか、若干の違いはあるものの、ほぼ、同じように、小野耕石の「Hundred Layers of Colors」に見る位置によっていろいろ違って見えるところがおもしろいとの評価を与えている。

その通りだとは思う。絵画は支持体である物体に絵の具という物質が定着されているにもかかわらず、物としての厚みは括弧にいれて視覚的な色と形だけを見るのが見方の定番だ。絵画は絵画の前のどの位置からみても同じように見えるという「正面視性」が最大の特徴なのだ。視覚性を旨とした「正面視性」のために、絵画は印刷物として複製しても、本物を前にしてみたときと基本的に同じように見えるわけだ。
「正面視性」が脱臼させられていると初めて感じたのは、アムステルダムとパリでニューマンの「カテドラ」と「輝きの出現」を前にしたときだった。複製図版で見ると単に色分けされた領域が並存しているとしか見えない。でも、大きなサイズの実物の前に立つと「視覚性」というのとは違う「身体的」な経験がもたらされる。これについては「絵画の経験」と題して「美術手帖」でニューマンについて論じたときに書いたことがある。ここでは繰り返さない。
小野耕石の「Hundred Layers of Colors」が見る位置でいろいろな見え方をするという場合、作品の前のどこから見ても同じものが見えるという「正面視性」への問題提起をしているのだと考えてみたくなる。そのとき初めて、視覚性と身体性を対置して絵画の経験を掘り下げることが可能になるのだ。そうでなければ、玉虫色の「視覚性」による万華鏡的なおもしろさをもたらすさまざまな「正面視性」をもった観客参加型の作品ということにしかならない。これ以上書くと牽強付会になりそうなので、この辺でやめておきたい。

もう少し率直に述べよう。今回のVOCA展で絵画の問題の掘り起こしがもっとも明快だったのは今井俊介の絵画だ。

                   今井俊介 untitled 2

いくつものぺらぺらした二色のストライプか円が繰り返された曲面状の断片が重なりあったり貫通しあったりしている。ところどころでストライプは曲面から遊離して漂いだしたり、ストライプがもう一つの相手を失って宙に浮いていたりもする。平面的というよりも薄っぺらで表層的なフラッグ(作者が名づけている)の連なりだ。
それらのフラッグは色の組み合わせや太さ、曲面性などどれをとっても違っている。断片になっている。それなのに抑揚がなく差異のない断片のように感じられる。つまり、フラッグは丸みのイリュージョンをもって、それぞれ違っているのに同じ表情の仮面のように見えるのだ。理容店の無表情な三色のサインポールの断片が重なりあっているシーンを連想してしまう。
どうしてなのだろうか。

ここで、過去に戻って、たとえば、クリフォード・スティルの絵画と、それを参照して展開したかのような辰野登恵子、そして、アンゼルム・キーファーを見てみよう。なにか手がかりがえられるに違いない。
クリフォード・スティルの絵画では、ほとんどの色面は画面の縁にかかっている。画面の縁は支持体そのものだ。だからすべての色面では、図と地、すなわち前と後ろの関係がなくなって、色面が同一の画面上でがっちり噛み合っている。支持体も、そこに表面として描かれた色面もすべてが一つになって現れてくる。形とはいえないこうした色彩の領域がカラー・フィールドといわれてきた。画面全体が一つになって一挙に眼前に迫ってくる。全体性と瞬間性が絵画の視覚的な強度を高める。くわえて、スティルの絵画はささくれだった瘡蓋のような表面が痛みの感覚や情緒を逆なでされるような気分を喚起する。見る者を拒絶するような壮絶な雰囲気が生まれていた。


                                       クリフォード・スティル 1950 A-No.2

辰野登恵子はこれを参照して、色面を画面の縁につなぎ止めたまま、メインになる色面をボリュームのある形象に変えたのだった。形象と背景は画面の縁につながれて同じ平面上にあるにもかかわらず、形象は揺れて動いて膨らんでくるかのようだ。丸みとボリュームのある形象性と、それとは異質な平面性とが融和している。形象とは描かれた表面で、平面性とは支持体だと言い換えることができる。スティルとは違って、辰野登恵子の絵画では、鷹揚でエネルギッシュな気分が漂っている。


辰野登恵子  WORK 89-P-19

アンゼルム・キーファーの「流出」では事態はかなり違っている。描かれた海に熱されて溶かされた鉛が画面上部から注ぎこまれ、支持体が焦げている。物質としての鉛の熱は描かれた海の冷気によって諫められ停止させられたかのようだ。というよりも、むしろ、鉛の物質としての強度が、描かれた海のイリュージョンを圧倒し侵犯しているのだ。絵画の外部である現実、あるいは物質、つまり他者が、イリュージョンとしての絵画に飼い慣らされなくなってしまって、他者性を露にしている。格闘技風の激しい暴力的な雰囲気がたちこめているのはそのためだ。


               アンゼルム・キーファー 流出

今年の2月、東京都美術館での「都美新鋭セレクション 新鋭美術家2015」展で見た瀬島匠「RUNNNER 2014キーファーを比較してみると、このあたりの様子はもっとわかりやすくなるだろう。なんだか、とってもよく似てるなあと、東京都美術館で見た瞬間に素朴に思ってしまった。

今井俊介に戻ろう。今井の絵画でも、フラッグはすべて画面の縁にかかっている。画面の縁は支持体だ。フラッグは支持体という一つの場所に固定されたまま、そこから離反しようとしている。フラッグという描かれた表面が支持体を圧倒しているのでもなければ、二つが融和しているのでもない。フラッグは支持体に繋留されたままそこから遊離する運動を繰り返しているだけだ。ピカソの1908年の絵画、たとえば「三人の女」についてレオ・スタインバーグが指摘した「背後のない前面だけの立体感」を想いおこさせる。しかも、空蝉のような、いかにも空虚な立体感ではないか。この点で、見たときに喚起される気分はまったく異なっているものの、辰野登恵子の絵画の仕組みに似ている。
ここでは、モダニズム絵画のアイデンティティを形成するはずの支持体が、他者となっている。その支持体がもう一つのモダニズム絵画の形成エレメントの表面と葛藤している。過剰免疫での自分がもう一人の自分を攻撃する状況を連想させられる。他者とは、実は「わたし」自身だったということだろうか。言語論の「シフター」にいまさらのように納得してしまう。今井俊介はモダニズム絵画のアイデンティティのニッチ、あるいは裂け目に踏みこんでいることになる。・・・、なんだか、ちょっと読みかじっただけのジャック・ラカンっぽくなってきた。この辺でやめておかなくては。

図式的に言うと、20世紀の前半、モダニズムの絵画の問題は「図/地」だった。それらが同時に、全体として知覚されることが焦点だ。これは、絵画の「描かれた表面」での問題設定だった。20世紀の後半、正確には1970年ごろまで、モダニズム絵画の問題は「描かれるべき表面=支持体」と「描かれた表面」との矛盾の克服だった。「正面視性」はこれらの二つのシーンでさけて通ることのできない課題でもあった。絵画のアイデンティティ、あるいは絵画の限界を提示することが絵画の問題意識の源泉だったからだ。
ついでに記しておこう。「正面視性」を軸にして、「図/地」から「表面/支持体」へのパラダイムの転換が起こったのは、モンドリアンがテープを使った「ニューヨークシティⅠ」においてだった。これもそうとう前に発表したことがある。
今井俊介の絵画を見ていると、こうしたモダニズム絵画の問題が、くったくなく、とても自然体で、しかも、これまでとは違ったルートから、ひと味違ったセンスでとりあげ直されていると感じられる。そこが興味深い。
玉虫色の「視覚性」による万華鏡的なおもしろさをもたらす「表現」のレベルでの問題の展開とはあきらかに違った絵画の問題が垣間見える。まだ掘り起こすことができる絵画の可能性の一つがそこにある。
(はやみ たかし)

    この文は、主に、次の展覧会から取材しました。
1.「現代美術の展望(VOCA 2015)」展 上野の森美術館 東京 2015314日—30
2.辰野登恵子の「WORK 89-P-19は「ミラー・ニューロン」展(オペラシティ・アート・ギャラリー 東京)で、6月28日まで展示されています。