2016年10月10日月曜日

杉本博司「海景ガリラヤ海 ゴラン」ー感覚の戯れを越えて

「見ることの誘惑」第四十七回

感覚の戯れを越えて

杉本博司 「海景 ガリラヤ海 ゴラン」(キリストが歩いたとされる奇跡の場)  
1992年 ゼラチン・シルバー・プリント 119.4×149.2cm 
「杉本博司 ロスト・ヒューマン」展 東京都写真美術館

杉本博司 「海景 ガリラヤ海 ゴラン」

東京写真美術館のリニューアル後初の展覧会は「世界報道写真展2016」と杉本博司展。束の間の生成消滅を繰り返す現実に肉薄する「世界報道写真展2016」と、そうした現実を越えてほとんど感覚不可能な場へ踏み込む杉本博司。
対極的な二つの世界。
写真の大きな二つの力でもある。

「杉本博司 ロスト・ヒューマン展」は、9種類の映画が上映された<廃墟劇場>と、33部屋から成るシリーズ<今日世界は死んだもしかすると昨日かもしれない>、京都、三十三間堂の千手観音の9枚の写真と「海景五輪塔」で成り立っている<仏の海>の三部構成だ。
「海景」は全部で三点、展示されている。「海景 ガリラヤ海 ゴラン」(1992年)と「海景 カリブ海 ジャマイカ」(1980)、「海景 バルト海 リューゲン島」(1996) だ。
「海景 ガリラヤ海 ゴラン」では(キリストが歩いたとされる奇跡の場)と注記が加えられている。「海景 バルト海 リューゲン島」は<仏の海>の暗い展示会場に置かれている、小さくて透明な「海景五輪塔」の中に封じこめられているのだ。

          杉本博司 海景五輪塔「海景 バルト海 リューゲン島」1996

「海景」はどれも水平線で海と空と均等に二分割されている。写真の前に立って、わたしは、そこにそのようにある海景に目を凝らす。キャプションに気づかなければ、意味から遠く離れたまま、見えている海景の精緻な表面の視覚的な強度に見入るばかりだ。
キャプションと注記に気づくと連想が渦巻き始める。
「海景 ガリラヤ海 ゴラン」では、旧約や新約聖書をはじめとして歴史に繰り返し登場する神話化されたガリラヤ海。過去のできごとばかりではない。今、現在も紛争が続くゴラン高原。
「海景 バルト海 リューゲン島」では、ドイツロマン主義の画家、カスパル・ダーフィト・フリードリヒのリューゲン島が舞台になっている壮絶な「海辺の僧侶」(1808-10年 ベルリン美術館)や、フリードリヒが新婚旅行で訪れて描いた「リューゲン島の白亜岩」(1818年)のバルト海などを連想してしまわないわけにはいかない。これらで印象的なのは、有限な人間の卑小な現実と無限にして超越的な海景との激しいコントラストだ(*)

                                 C・D・フリードリヒ「海辺の僧侶」1808-10 ベルリン美術館

意味を消去することで視覚的な強度を増す写真と、それとは逆に写真につけられたキャプションなどのことばによる想像の連鎖で織りあげられる意味や物語。写真の表面を凝視することと、それとは異質な意味との間で、わたしは宙吊りにされてしまう。

こうしたとき、想いおこさないわけはいかない絵画がある。ロンドンのテート・ギャラリーにあるブライス・マーデンの「アドリア海」(1972-73年)だ。
上下で均等二分割されている。タイトルのアドリアの字義通りに「暗い」、イタリアとギリシャの間に広がるアドリア海と灰青色の空ということになるだろうか。海は地球の生命誕生の場所であると同時に、深い死の闇におおわれてもいるのだと感じさせられる。

ブライス・マーデン「アドリア海」1972-73  テート・ギャラリー

ブライス・マーデンの「アドリア海」は作家自身が述べているように、マーク・ロスコが死ぬ直前に描いた「黒の絵画」シリーズにつながっている。ロスコ「無題」(1969-70年 MOMA ニューヨーク)は、アトモスフェリックなグレーの下半分と、沈黙におおわれた深い黒の上半分。絵画を凝視することを越えて、絵画の前で瞑想するしかない気分に襲われる。

            マーク・ロスコ「無題」1969-70 MOMA N.Y.

けれども、わたしたちは、瞑想を寄せつけない絵画も知っている。
桑山忠明や、ロー・キャンヴァスを二分割してメディム(絵の具の溶剤)をかけた半分となにも施さない生の布の状態で提示した山田正亮や須賀昭初などの絵画だ。
それらの絵画は、視覚の対象から遠のいて、物質の状態に限りなく接近している。だから、絵画として見ることができること(感覚可能)と、絵画としては見ることができないこと(感覚不可能)との境界線上に位置する絵画、あるいは、絵画としての表象作用が機能停止状態だといってもいいだろう。
こうした作品のように、「芸術」としての見え方が最小限になり、現実の物質や物体としての見え方が最大限になっている美術作品を、わたしたちはミニマル・アートと名づけてきた。今日では、ファッション化したライフ・スタイルの「ミニマリスト」が人口に膾炙しているようだ。

杉本博司の「海景」は、次の二つの間で揺れている。
一方の極では、すべての想像力を機能停止にさせて連想をストップさせ、ただ見ることしかできない状態。もう一方の極では、それとは正反対に意味や物語、あるいは心象風景というようなかたちでイメージを喚起させる状態。作品を見ているわたしは、あるときには、二極の間で引き裂かれ、別なときには重なりあった二極の中にいる。
正反対のこの二つの離反と共存の経験は、無に帰してしまうがゆえに沈黙せざるをえない「死」の場面と、存在が生成される「生」の場面に、同時に身を置いているような状態なのかも知れない。
(早見 堯)

(*)
「海景 ガリラヤ海 ゴラン」は33室からなる<今日世界は死んだもしかすると昨日かもしれない>の冒頭に掲げられている。最後の部屋の後の「海景 カリブ海 ジャマイカ」で締めくくられている。図録では、その後に、9点の<廃墟劇場>の一つ「ルキノ・ヴィスコンティ『異邦人』」が置かれている。おそらく、三部構成のそれぞれの展示は相互に入れ子状の関係になるように企図されたのだろう。アルベール・カミユの小説「異邦人」の主人公ムルソーの殺人の理由「太陽が眩しかったから」は、光の痕跡を留めることに腐心する写真にとってなんだか示唆的だ。

*この記事は以下の展覧会で取材しました。
画像は、杉本博司の作品は以下の展覧会図録から、その他は各美術館サイトから取材しました。