2016年1月12日火曜日

連想と記憶喪失 ポロック「32番」1950年

見ることの誘惑 第四十二回
連想と記憶喪失
ジャクソン・ポロック「32番」1950

                ジャクソン・ポロック「32番」1950年 
           デュッセルドルフ ノルトライン・ヴェストファーレン美術館

茅ヶ崎美術館で1月末まで「島谷晃」が開催されている。
5年前に亡くなったのだが、わたしも旧知の友人なので、多くの友人の支援で、110日、島谷晃の作品についてのトークを茅ヶ崎美術館で行わせていただいた。

島谷晃はダジャレというか、自分の名前の「しまやあきら」を「しまったあきらめろ」といいかえるような、いわゆる「地口」の「もじり」が得意だった。ときにはオヤジギャグ風で脱力してしまうことが度々あったが、連想が斬新だと思わずキレの良い頭だなあと感心することもしばしばだった。

連想は、あるものと別なものとをどう関係づけるのかということにかかわっている。花田清輝は異質なもの同士の組み合わせ「月とスッポン」について論じた興味深い文章を書いている。
わたしの自宅の近所の国分寺崖線の斜面にある武者小路実篤庭園の旧宅には、キュウリとカボチャなどを並べて描いて「仲良き事は美しき哉」と人を食ったようなフレーズがそえられた実篤の絵が飾られている。
李禹煥の世評に高いひび割れたガラス板の上に石の作品は、こうしたらこうなるといった因果関係の事実だけが提示されているとみなされている。でも、表象(再現・象徴・兆候)作用や連想をまったく排除しているとはいえない。「こうしたら」というあるものと「こうなる」という別なものとを関係づけるのは連想する力だからだ。

連想とは図式化すれば「〜を・・・として見る」という、わたしたちのごく日常的な知覚認識のカタチにほかならない。
蓮實重彦風にいえば、あるものと別なものとのずれと重なり、すなわち、差異の楽しみということになるのだろう。

島谷晃の20歳代の1970年に描かれた秀作「みのむし イ」が茅ヶ崎美術館に展示されている。同じ頃に描かれた「みのむし ロ」と姉妹作だ。連想する力で描かれた絵画が、わたしたちに差異の楽しみもたらしてくれる。

                島谷晃「みのむし イ」

                   島谷晃「みのむし ロ」

「みのむし ロ」は「女子にもてたい」という青年の願望で、自分をみのむし、女子をみのむしを囲む木の葉に見立てている。空中に浮かぶハーレムか、あるいは、空の雲が魚に見えたりするので竜宮城の浦島太郎を、作者は連想していたのだろうか。
「みのむし イ」は「みのむし ロ」の使用後、あるいは先かもしれないが、二つペアの関係で描かれているようで、当時の末期のベトナム戦争の影が反映している。みのむしも女子も死をイメージさせる。
空には日本の地図が雲になって浮かんでいる。高みの見物でわれ関せずの日本への密かな批判だったのだろうか。
これはアンリ・ルソーからの連想でもある。
また、背景の空は西洋人を驚かせた広重などの浮世絵の上部がベロ藍、下部が紅の空が引用されているのだろう。

               アンリ・ルソー 「自画像」

ハーレム風の「みのむし ロ」は上弦の月状の曲線の構図、「みのむし イ」は逆に下弦の月状曲線構図だ。明らかに、二つセットで企画されていることがわかる。二つを並べて見ていると、差異を伴った連想が次々に眼前に現れてくる。地口の「もじり」的な連想能力全開だ。

連想する力が重要なのは、いうまでもなく推理小説だ。推理小説の元祖エドガー・アラン・ポーは意表を突く差異の関係づけを小説のいたるところで展開している。
 「異質なものの並置」を絵画表現の方法として駆使したルネ・マグリットがポーを好んでいたのは当然だ。ポーの自然美と人工美とが巧みにコントロールされた風景を描いたポーの庭園論小説はいくつかある。現実の風景に美を推理しようとしたわけだ。マグリットはポーの庭園論小説「アルンハイムの領土」をもとに同じタイトルの絵画を描いている。

              マグリットの「アルンハイムの領土」

マグリットの「アルンハイムの領土」は鳥/山と卵/建物とが自然と人工という形で、見る者の連想を誘うように異質なようでもあれば似てもいるものとして並置されている。
さらに、月/宇宙と大地/自然、そして建物/人工が垂直軸で関係づけられている。卵から鳥、そして宇宙への羽ばたきといったマグリット特有の「透視力」を連想できるかもしれない。ポーの庭園論に挑戦とか解釈というようなこととはあまり関係ないだろう。

こうした連想過剰な絵画とは別なシーンがあったことを想いおこしておきたい。
ドイツ、デュッセルドルフにあるジャクソン・ポロックの「32番」(1950年)。
黒の塗料だけがロー・キャンバス(コーティングされていない生のキャンバス)に注ぎ込まれるようにして描かれている。いわゆるオール・オーヴァー・ポード・ペインティング(画面の全体が連続的に同じようなパターンでおおわれた絵の具の注ぎこみ絵画)だ。


じっと見続けていると、人がダンスしている姿が見えてくるという人もいる。たしかにそうかも知れない。絵画は見る人の連想や妄想を誘うのは当然だから。
でも、そういう「わたしに固有」の連想や妄想を、力強かったり、爽快だったり、あるいは、繊細や華麗、重かったり軽かったりするポロックの線は、連想や妄想を、一つ一つ、あるいは連想や妄想が起こるたびごとに消してしまう。
そんなことがあるはずはないが、誇張していってよければ、純粋な線といってみたくなる誘惑からのがれることはむずかしい。
純粋か不純かよりも、線それ自体が、連想と妄想を打ち消しながら繰りかえし現れてくるところが重要だ。

ポロックの絵画からえられる経験をモダニズムの絵画が理想としたいわゆる純粋視覚とまでは、いかになんでもいいたいとは思わない。
けれども、線が人やダンスといった線以外のイメージを表すための道具になってはいないことは強調しておかなくてはならない。
描かれた線が、たとえば人のイメージになると、線それ自体は見る者の視野から後退していく。線がイメージの道具になっているわけだ。色や形でも同じことがいえる。

話しはそれるが、聞きかじりの資本主義論を援用すると、資本家が絵画の中のなんらかの「イメージ」だとすると、「線や色、形」は労働者といえるだろう。

労働者は「生産する身体」として産業技術革命以後の近代化された社会に登場した。資本家に搾取される「生産する身体」としての労働者は、生産の道具だ。個人としての人間性が疎外されている、といった風に考えるのは図式的すぎるだろうか。
実際、産業技術革命が高揚して進行中の19世紀の印象主義者の絵画では、郊外のセーヌ川そばの煙突によって象徴される工場が「生産する身体」の労働者のメタファーとして描かれている。
画家も、実は、灰色の陰を目の中で青色として再生産してしまうほどの「生産する身体」としての「目」の所有者でもあった。画家はプチ・ブルジョワジーでもあれば労働者でもあったわけだ。
道具化された線を、「イメージ」による疎外から解放したのがポロックだとしたら、ポロックはマルクスの「資本論」を実践して無産者階級を解放しようとしたロシア革命のレーニン、そして、ポロックを最初に意義づけて評価した20世紀最大の批評家クレメント・グリンバーグは、さしずめマルクスということになってしまうのだろうか。・・・、連想ならぬ妄想が激しくなってしまった。

ポロックの線はイメージを打ち消す力をもっている。イメージの道具にならない強さがある。そのことで、ピカソの線を継承しながらピカソが乗り越えることができなかった線の再現性、つまり線の道具化を脱臼=転移したのである。そこが素晴らしい。
ポロックの絵画のこうした道具にならない線を強調すると、「それ自体」などはありえないとか、記憶喪失の視覚などといわれてきた。
たしかにその通りだが、ここは、「〜を・・・として見る」という連想作用を「描かれた線を見える線として見る」といってみたい。存在と視覚との一致とでもいいかえられるのかもしれない。「馬から落ちて落馬して」みたいなトートロジー(類語反復)なのだろうか。

こうしたシーンは、アメリカの1960年代の美術が最盛期だった。世間に流通するイメージを引用して繰り返したアンディ・ウォーホルは「わたしの絵画の背後にはなにもない、表面だけだ」といい、もう一方の抽象のチャンピオン、フランク・ステラは「あなたが見ているものがあなたが見ているものです」と自分の作品を説明している。「ABとして見る」のではなくて「AAとして見る」ということだ。連想や関係づけはジャマ、不要なのだ。存在と視覚、つまり絵画の画面の表面と目の網膜の表面との間に距離がない感じだろうか。

ウォーホルの繰り返しは、たとえば、こんな感じだ。
母親が毎日子どもに向かっていう「勉強しなさい」のように、毎日いわれ続けている子どもにとっては「勉強しなさい」の意味は遠のいて、注意されているということだけが強迫観念として感じられる。
ここでは、アメリカ人が毎日食べているといわれているキャンベルという商品名の意味は遠のいて、繰り返されているイメージだけが、強迫観念のように視覚的なインパクトの強さとなって見る者に迫ってくる。意味が遠のいて視覚的強度が高まる。

            アンディ・ウォーホル キャンベルスープ缶

ステラは、13色を右側面から色相環の順番に繰り返すだけだ。13色なので、四角形の4辺で順番に繰り返されると、一つずつずれていく。だから、見た目には規則性を感じさせない。
いずれにしても、色相環の配置にしたがって並べて行くので、自分のセンスを排除した色帯の繰り返しということになる。にもかかわらず、ジャズから引用された題名のように、夜中にハイエナがドタバタさわいでいるかのような、色彩の自発的な現れになって、わたしたちの視野をおおい尽くす。
作者の意図や感性による絵画のコントロールは最小限になり、絵画の画面がそれ自体から、あたかも自然に色彩が生まれてきたかのように感じられる。
連想する余地はない。現れてくる色彩の現象を見ているわたしたちは、いわば、ありのままに、受け入れるだけだ。
これが、「あなたが見ているものがあなたが見ているものです」という絵画の状態だ。

            フランク・ステラ「ハイエナ・ストンプ」

これらを突き詰めると、コンセプチュアル・アートの一方を代表するソル・ルゥイットの「122個の不完全な開かれた立方体」のような、言葉や概念を使った連想を一切排除して、12辺あったら完全な立方体だが、不完全な立方体といえるのはどれとどれかなといった風に、しらみつぶしに試してみるような即物的な作品にたどりついてしまう。
ルゥイットの上の画像はテーブルに122個の「不完全な立方体」、壁に黒地に白抜きで「不完全な立方体」122例がビジュアル化して掲示されている。
四辺足りない不完全な立方体の一つは、立体の状態で、東京、御殿山の原美術館の庭に展示されている。ご存知の方も多いだろう。

          ソル・ルゥイットの「122個の不完全な開かれた立方体」

             ソル・ルゥイットの「122個の不完全な開かれた立方体」

「辺に関して不完全な立方体は?」という質問に対して、「辺が12本ではなくて、しかも立方体だと予測できる12本未満の辺による立方体」と言葉で答えれば簡単だ。だれでも「そうだよね」と納得するだろう。
しかし、連想する力がなくなって、言葉を忘れた記憶喪失者のように、あるいは**唯名論者のように、ルゥイットはひたすら辺に関して「不完全な開かれた立方体」を、一つ一つ確認しながら計上したのだ。
辺が二辺や一辺では、三角や四角になることは予測できても、立方体になるとは思われない。だから三辺から始まっている。
*言葉より「物」が先という「唯名論」の観点から、ルゥイットやミニマリズムの作品を取りあげたのはロザリンド・クラウスだ。

なにかをわかるときに不可欠の「〜を・・・として見る」ような連想を旨とする美術と、それとは逆になにもわからせない、つまり意味を排除して視覚的な強さを強調する美術と、モダン・アートの美術作品には正反対の二つのタイプがある。
つけ加えておくと、意味は文脈の効果でしかない。だからマグリットのようなシュルレアリストはイメージそれ自体以上に、イメージとイメージが置かれる「場」、すなわち文脈に気をくばっているのだ。
「わかる」、すなわち認識や意味ということに関連する場面では、日常生活でも、「わかれば良い」というものでもないし、「わからない方が良い」とばかりもいえない。
わたしたちは、今も、この二つの極のあいだにいる。
(はやみ たかし)
※島谷晃作品は茅ヶ崎美術館図録から再録しました。