2017年7月9日日曜日

「一つと二つあるいはそれ以上」、「分ける(わかる)」と「組みあわせる(再生産する)」

「見ることの誘惑」第五十三回
  早見 堯(はやみ たかし)

「一つと二つあるいはそれ以上」、「分ける(わかる)」と「組みあわせる(再生産する)」
エドヴァルド・ムンク「雪の中の労働者」
1910年 223 ×162cm 油彩  国立西洋美術館 東京

わたしが強い衝撃を受けた美術作品、あるいは文や出来事などは、多くの人と同じようにいくつもある。
それらのなかの何点かの美術作品をモチーフにして、「一つと二つあるいはそれ以上」というテーマで書いてみたい。これは、おそらく、「分ける(わかる)」と「組みあわせる(再生産する)」に言及することになるのではないかと思う。

ムンク「雪の中の労働者」

エドヴァルド・ムンクの「雪の中の労働者」をはじめて見たのは18歳の春だった。
広島から上京して受験の合間、3月の初め、そんなときに気持ちにどれほどの余裕があったのかは覚えていないが、ともかく上野の国立西洋美術館に行った。国立西洋美術館はたぶん「芸術新潮」で知っていたのだと思う。向かいの東京文化会館のコンサートホールの壁が流政之のレリーフで飾られているのを知ったのは「芸術新潮」だったので、国立西洋美術館も同じようにして目にしていたのだろう。
ほかにもいろいろな作品があったはずだが、覚えているのはムンクの「雪の中の労働者」だけ。
美術館訪問がそもそも初めてだし、ムンクを見るのも初めて、「雪の中の労働者」など知る由もなかった。初めて尽くしのわたしにとって、とても衝撃的だった。いまにして思えば他愛もないことだ。「叫び」のようなムンクらしさがなかったからだ。

                ムンク「叫び」

それは健康的な絵に思えた。不安と絶望、病と死の不健康四重奏という通常のムンクらしさがなかったのだ。絵のサイズも大きくて、絵そのものが元気そうだった。
「えっ!なんじゃこれは!これがムンクかのう(注*広島弁で臨場感を盛りあげてあります)」という気分。
ムンクの絵を見ることができるなどとは予想もしていなかった。絵を前にして、それまでひそかに期待していた病にふせっているムンク像と、目の前の肉体労働をしているムンクのこの絵との激しい落差ゆえに、ムンクの「雪の中の労働者」は、その絵というよりも、この落差こそがわたしの記憶に残されたのだ。
その後、東京の学校に通うようになって以後、国立西洋美術館を何度も訪れた。訪れるたびに気になっていたのだが、不思議なことに「雪の中の労働者」が展示されているのに巡りあったことがない。1970年、鎌倉近代美術館の「ムンク」展も見たが、展示されていた記憶はない。
もしかしたら見たと思っているのは錯覚かもしれないとさえ思ったりしたこともたびたびあった。
わたしが、再び「雪の中の労働者」に出会うのは、2007年から2008年にかけて国立西洋美術館で開催された「ムンク」展でだった。絵の脇に国立西洋美術館所蔵と記されている。そうだ、これだ、これだった、やはり、ここにあったのだ。個人史として40数年ぶりの再会だった。サイズも初めて見たときの印象と同じ、150号くらい。大きい。懐かしい。

絵の前で、18歳の、春先のやるせなく揺れる気分を想いだしはしたが、かつてのような落差を感じることはなかった。ムンクのムンクらしいと思われている「不安」三部作の、「叫び」や「不安」、「絶望」と構造的に同じだと、40数年のあいだにわかっていたからだ。
アーティストは見つけだした唯一のアイデア、あるいは自分の「型」といってもいいかもしれないが、それを「手を変えず品を変えて」一生くりかえすという、わたしがこれまでに発見したただ唯一の定理、「アーティストはワンパターンである」をあらためて確認させられるばかりだった。
「雪の中の労働者」を、国立西洋美術館の「ムンク」展で展示されていた「不安」と比較してみればすぐわかる。

                ムンク「不安」

「不安」では正面を向いた人物に背景の曲線状の空などが連なっている。それに対して画面右下隅から左上に向かう有角視透視的な短縮遠近法の橋が重なっている。人物や背景の正面性と橋の極端な斜傾性。正反対の二つの組みあわせだ。
「雪の中の労働者」では正面を向く労働者に対して左下から右上に向かう労働者の列の斜傾性。こちらの画像を水平反転させてみればよりわかりやすい。後ろの労働者のシャベルが不思議なほど前方にせりだしていることで人物の正面性が強調されている。
「不安」と同じように、異質な二つの正面性と斜傾性のくみあわせだ。ムンクの「叫び」や「絶望」も同じ構造であることはいうまでもない。

             水平反転させた「雪の中の労働者」

               ムンク「絶望」

同じような正面性と極端な斜傾性の組みあわせで際立っているもう一人のアーティストはゴッホだ。
「夜のカフェテラス」や「糸杉のある道」は典型的ではないだろうか。

              ゴッホ「夜のカフェテラス」
    
                                                    ゴッホ「糸杉のある道」


「夜のカフェテラス」では短縮遠近法で一挙に遠ざかるカフェテラスのこちら側に、わたしたちに背を向けたゴッホが正面性で立っているシーンを想像してみたい。
「星月夜」もゴッホの分身である糸杉の正面性と極端に遠ざかる風景。基本的な構造は同じだ。

               ゴッホ「星月夜」
ムンクもゴッホも、正面性の「わたし」や「わたし」の分身と、斜傾性の有角視透視や短縮遠近法による空間や背景が激しく対抗させられている。「わたし」と背景、すなわち「わたし」と「わたし」が所属しているはずの社会とが乖離しているといった雰囲気をつくりだしている。

こうした相反する二つの空間の組みあわせは、それを絵画の構造として考えると、意外にもたくさんつかわれていることがわかる。
クロード・モネは1870年代の印象主義の時代から、画面の平面に並行したタッチやストロークと、それとは異質な奥行きが強調された線遠近法による背景とを組みあわせることが多かった。
もともとは、タッチやストロークが並置されて光をうけてちらちらとさざ波で揺れている水面のような光景に奥行きを与えて安定させるために線遠近法による空間を組みあわせたのだった。
万国博開催にわくパリの光景を描いた「モントルグイユ街1878630日」によく現れている。

            モネ「モントルグイユ街1878630日」

モネの絵では、ムンクやゴッホなどと正面性と斜傾性の組みあわせという点では同じだが、使われ方は違う。「モントルグイユ街1878630日」では、線遠近法による斜傾性の空間は、絵画空間を安定させる、いわば建物の補強構造のような役割を担わされていた。
モネはブリヂストン美術館や川村記念美術館にある「睡蓮の池」では、さらに別な方向に進んでいく。正面性と斜傾性という二つの異質な空間をつかって、現実の睡蓮の池の光景を目眩するような幻想的な空間に変容させている。

             モネ「睡蓮の池」ブリヂストン美術館

さらに、もっと違った使い方をしたアーティストもいた。
アメリカのミニマル・アーティスト、フランク・ステラの「コンウエイ」はどうだろうか。

            フランク・ステラの「コンウエイ」
 
不規則多角形のシリーズの一つ。四角形と平行四辺形とを合体させた不規則なキャンバスのシェイプになっている。正面性で平面的な四角形と、それとは異質な斜傾性で奥行きを感じさせる平行四辺形の組みあわせ。
異質なものの取りあわせ、と言いかえてみると、シュルレアリスムや月とスッポンを想起しそうになる。でも、ここでは、異質な二つが不可分なく融合して一つになっているように見える。
話はそれるが、ステラの「コンウエイ」はアンリ・マティスの「赤のアトリエ(赤のパネル)」との類似を感じさせずにはおかない。マティスの「赤のアトリエ(赤のパネル)」では、左側の壁や窓、テーブル、椅子などと床の「かたち」は奥行きを感じさせる斜傾性だ。しかし、ここでは、そうした「かたち」を凌駕して背景の赤色が正面性による平面性という以上に、絵の前に立つわたしたちに向かって手間にせりだし、同時に左右上下に拡張していく。

          アンリ・マティスの「赤のアトリエ(赤のパネル)」

「赤のアトリエ(赤のパネル)」ではテーブルや椅子などの輪郭線は背景の赤色の塗り残しになっている。赤色の上に輪郭線が描かれているのではなくて、塗り残された隙間なのである。テーブルや椅子などは赤色の背景のなかに塗りこまれているといってもいい。ステラの「コンウエイ」も同じ方法で塗り残して輪郭線がつくられている。
ムンクやゴッホが正面性と斜傾性の異質さを強調していたのとは正反対に、ステラは異質な二つが異質であるままに、違和感なく一つになれることを示しているのだ。
異質性と同質性、相容れるはずのない正反対の二つが、強調されている。単純に言って、違う二つの形だと思ったら実は同じだった!という驚きは、視覚的なインパクトの強さになっている。

こう考えればわかりやすいだろうか。正面性と斜傾性を赤色と青色に置きかえて考えてみる。ムンクやゴッホが赤色と青色との強烈な対比を表現の要にしているのだとしたら、ステラは、赤色と青色を紫色にすることなく、赤色と青色のままで「一つの赤青色」にしている。
マティスの「赤のアトリエ(赤のパネル)」でのテーブルや椅子などの斜傾性は、正面性でしかも前進する赤色の引き立て役だった。ステラでは斜傾性と正面性は同等のまま融合されている。
パブロ・ピカソが「アヴィニヨンの娘たち」に登場する女子で正面性と斜傾性とを不可分なく合体させて、平面的なままで立体感をつくりだしている効果とよく似ていないだろうか

               ピカソ「アヴィニヨンの娘たち」

モダニズムの絵画では平面性は強い価値をもっていた。なぜなら、平面的であることによって、絵画が一挙にすべて、観客の目に焼きつけられるインパクトの強さがもたらされるからだ。「一挙にすべて」というのは、時間的には瞬間的、空間的には全部ということになる。
たとえば、こんな風にたとえてみたい。立体の地球儀では地球を一挙にすべて見ることはできない。メルカトル図法による平面化された世界地図なら、地球を瞬間的に全部視野におさめることができる。
これが平面性の効果だ。現実の地球とは多少異なるとはいえ、意味の現れを圧倒して、視覚的なインパクトが強調される。一瞬の絶頂感、驚きの美学の最高潮ではないか。時間的に一瞬であり、空間的に一つなのだ。「図」と「地」が一つになり、絵画の描かれた表面とその表面を支えている支持体も一つになる。
こうした状態をポップ・アートのアンディ・ウォーホルは「わたしの作品には背後はない、表面だけだ」といった。ミニマル・アートのフランク・ステラは自分の絵画に注釈を加えたときに「あなたが見ているものがあなたが見ているものです」といったのも、こうしたことを指していた。

平面性を武器にしたトートロジー(類語反復)や「一つ」であること。
これこそが、20世紀のモダニスト・アートの絵画で、ピカソやマティス以後、モンドリアンやバーネット・ニューマンを経て、アンディ・ウォーホルやフランク・ステラで頂点に達した方法だった。

この「一つ」であることに、もっと別なポジションからアプローチした興味深いアーティストが何人かいます。
絵画のなかの空間的な斜傾性と正面性は、絵画の本質的なあり方である「正面視性」に包含される要素であることに留意しながら、「一つ」であることが、「二つあるいはそれ以上」に開かれていく様子を、別な場で書いてみたいと思っています。

*近日中にブログ「終わりなきまなざし」を開始予定です。

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